日本会議の研究  菅野完  2022年8月

はじめに

 菅野氏の説明では自民党が右翼化した事、韓国へのヘイト本が多い事、有権者全体が右翼化している訳では無い事等が述べられている。右翼化と外国人排除は類似であるが、これらの情報源は多く「正論」「WILL」「歴史通のという保守論壇誌である。
安部首相が退陣した2008年、しかし、その後も安倍を支持する人達は多く保守論壇誌であった。これらの調査からたどり着いたのが日本会議という民間の保守団体である。

第1章 日本会議とは何か?

 第2次安部内閣の84.2%は日本会議参加者である。日本会議の目指す所は、
1.美しい伝統の国柄を明日の日本へ
2.新しい時代にふさわしい新憲法を
3.国の名誉と国民の命を守る政治を
4.日本の感性をはぐぐむ教育の創造を
5.国の安全を高め世界への平和貢献を
6.共生共栄の心で結ぶ世界との友好を
この文章をもう少し分かりやすく述べると、以下となる。
皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが、昭和憲法が阻害要因となっているため改憲した上で昭和憲法の副産物であるいき過ぎた家族観や権利の主張を抑え、靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し国防力を強めた上で自衛隊の積極的な海外活動を行いもって各国との共存共栄をはかる、である。
日本会議の活動方法は分科会による別働団体での活動である。日本会議が一気呵成に進めているのが、憲法改正である同時に特徴的な事が宗教団体との関係である。参加している宗教団体は古くからの宗教、明治以降の新宗教なと異なる多くの宗教が日本会議に参加している。

第2章 歴史

 日本会議は1997年に設立された。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が前身母体である。「日本を守る会」は1974年設立で、「日本を守る国民会議」は1978年設立である。
元号法制化運動とは、GHQが占領政策の一貫として明治大正昭和という元号に法的根拠を与えていた皇室典範を改正した。これに対して神社や遺族会等の保守陣営は反対していた。この流れを変えたのが、「日本を守る会」である。わずか2年で元号法の立法を成功させて保守系団体がこの会議に集まる様になった。「日本を守る会」の発起人は鎌倉円覚寺の朝比奈宗源氏である。他にも明治神宮や浅倉寺等の宗教団体の名前ばかりである。成長の家について言及されている。当初は成長の家は「日本を守る会」に入っていたが、現在は入っていない。成長の家は谷口雅春氏が創設者である。これは1930年創設である。この団体は強烈な反共意識に基づく右派的な宗教団体である。戦後公職追放になったが、その後復活し学生運動にも影響を与え、長崎大学で右派学生による「正常化」が椛島有三に繋がる。しかし、時は学生運動が下火になり、右派にとって唯一の存在意義である左派が消滅する事になり、これらの団体も目標を失ってしまう。「日本を守る会」ができたのが1974年であり、この団体のリーダーが後々参院のドン法王となる村上正邦である。この様な背景の中で1977年椛島有三の所属する日本青年協議会は「日本を守る会」に合流する。そしてわずか2年で元号法の制定を勝ち取った。戦後50年と70年の2回は2人の首相による談話が発表された。これには多くの紆余曲折があった。戦後50年の際は社会党の村山談話である。先の戦争は侵略戦争であつたのか?否か?という議論の中で、社会党の村山首相は侵略戦争であったと表現したいが、参院の法王である村上正邦は断固としてこれを認めない。衆院は通過しても参院では却下され最終的に村山談話という形式をとった。戦後70年では安部晋三首相であつたが、文章は長いが誰か誰に対しての謝罪なのか?曖昧な表現となっている。この様な背景が日本会議なのである。また、「靖国神社国家護持法案」の紆余曲折も重要である。様々な背景の中で1973年を最後に法案提出さえもできない状態である。この問題の源流は「政治と宗教」の関係性の深さである。

第3章 改憲

 日本会議の目指す所は、憲法改正である。2016年参議院選挙での成功を目指した活動であった事、安倍晋三元首相が希望の星であった事が挙げられる。戦後占領下での昭和憲法自身を認める事ができないという事が主張である。また、夫婦別姓に関しても大いなる関心を寄せ、多大な努力を投入した。日本会議の議長は日本の最高裁判所の元長官が複数人就任している。最高裁の下す結果である夫婦同性堅持は日本会議の主張と類似性を持つ。

第4章 草の根

 日本会議の運動手法は地方議会で「国に対して改憲を早期に実現する事を目指す意見書」を採択させることである。このさきがけが2014年2月石川県議会からでた。自民党本部から各地の自治体に同様の意見書を提出する様にとの指示が全国に出された。日本会議の運動手法は、この様に地方議会を通じて国会を動かす手法である。また、日本会議は選挙のたびに候補者にアンケートを実施して、イデオロギーを問うている。この様な活動を高い事務処理を通じて実施している。
2015年7月、大阪天満宮の裏にある大阪落語の寄席である「天満宮繁盛亭」にてのイベントが行われた。「本当にあった日本の美しい噺」というイベントである。出演者は中曽根千鶴子、桂福若等である。共にヘイトスピーチに関連している。
日本会議の事務局は右翼団体である日本青年協議会である
2014年4月、「谷口雅春先生を学ぶ会」が行われた。この中でも落語家の桂福若や中島省治等が挙げられている。
2015年6月、安部首相に近い若手議員が立ち上げた「文化芸術懇話会」が自民党主催で開催された。作家の百田尚樹と衆院議員の長尾敬がいた。自民党が変質してしまった。
2015年11月、日本会議が主導する「今こそ憲法改正を!武道館一万人退会」と称する集会を開催された。誘導員等の事務方は日本会議関係者である。
この集会の多数の参加者は宗教団体からの割り当てである。一例として、嵩教真光の3000人である。
この集会は結果として10300人の参加があった。この数字は選挙に勝ちたい政治家にとって魅力的である。安倍晋三首相のビデオメッセージが寄せられた。君が代で一体感が作られた。憲法改正は述べられるが、どの様に変えるかは?具体的ではない。緊急事態条項、家族のあり方に触れられたに過ぎない。この集会には、生長の家源流主義」とも言うべき中島省治が壇上にあった。また、参加している議員の序列にも不自然さがあった。衛藤晟一氏は閣僚経験はないが、上席にあった。これは氏が「日本青年協議会」の副代表である事の影響であろう。
これらからこの集会は一万人もの人員を動員できる事を政治家達に圧力をかける事が狙いであったと推測できる。この様な手法が右翼団体の方法である。
この様な組織がどの様にして維持されているかを次ページで紹介している。集会への参加者の多くは高齢者であったが、事務局は若手が多い。若い人間をどの様に獲得したのかを示している。学生運動の2世3世が親に言われて渋々参加しているとの事である。安部政権はこの様な団体に支えられ改憲を目指している。

第5章 一群の人々

 この章では日本会議周辺の主要人物3人を紹介している。
第1は伊藤哲夫である。伊藤は元々生長の家に所属し政治活動を行っていた。しかし、1984年成長の家は突然、政治活動を停止する。これに対して伊藤が設立したのが、日本政策センターである。伊藤達が最終的に理想とするのは、明治憲法復元である。昭和憲法はGHQによって作られた憲法であり、ボツダム宣言の受諾後、作られた物で不備がある。これを明治憲法に戻す事が彼らの最終的な目標である。伊藤が自民党内で脆弱であった安倍晋三に接近した。安倍晋三が自民党の幹事長・首相になるのに大いなる影響を与え、下支えしたのが、日本政策センター伊藤である。安倍晋三が大きな影響を持つに連れ、日本政策センターも大きな影響を持つに至った。
 日本政策センターは1984年設立であるが、国家の精神的基礎に焦点を当てて研究を行い政策を提案する事を目的としている。しかし、冷戦の終焉・細川内閣発足等で路線を修正しつつ、最終的に4つの点に集中する様になった。歴史認識・夫婦別姓反対・従軍慰安婦問題・反ジェンダーフリーである。この考えを基に、改憲アジェンダを決めている。第1は、緊急事態条項の追加である。他国から攻められた等の非常事態発生時に、三権分立・基本的人権を一時無効化し総理大臣に権力を集中される事である。第2は、家族保護条項の追加である。昭和憲法では個人の尊厳が重要視され家族が蔑ろにされている傾向にあるのでこれを正す。第3は自衛隊の国軍化である。憲法9条第2項を修正して明確に戦略を認めるのである。これらが、日本政策センターの主張であるが、自民党の改憲アジェンダも全く日本政策センターのアジェンダと一致している。
 伊藤哲夫は学生運動からでの生長の家での政治活動、日本政策センターを通じて昭和憲法改正を目指し明治憲法復活という最終目標を目指してきた。そして、安倍晋三という自民党政治家を若い時代から支える事で大きな影響力を物に至らしめたのである。
第2の人物は百地章である。百地章は1969年静岡大学を卒業し、京都大学の大学院に進んでいる。右翼化学生運動は武闘系だけでなく文化系サークル的な活動の形態もとっており、この代表が百地章である。そして、「美しい日本の憲法をくつる会」の幹事長、「21世紀の日本と憲法」有識者会議の事務局長を務めているのが百地章である。
第3の人物は高橋史郎である。高橋氏は、南京虐殺事件そのものを「捏造」として訴えられ敗訴した人間である。しかし、日本の外務省は高橋氏をバランスの取れた研究者と表現している。高橋氏は1950年生まれ、早稲田大学卒である。椛島有三や衛藤晟一らは長崎大学での右翼系であり、その出身は異なる。しかし、高橋氏は成長の家学生全国連合に属していた。早稲田大学卒業後、アメリカに留学していた際にGHQの資料から「御守護」という生長の家創始者の谷口雅春氏の本を見出している。これはこの世界ではとても大きな成果といえる。
 安部政権を取り巻く改憲勢力の淵源は生長の家学生運動の椛島有三のグループ伊藤哲夫のグループを源としている。椛島有三は日本青年協議会を経て日本会議を作り、伊藤哲夫は日本政策センターを作った。これらの組織の長年の活動が1000万筆という膨大な改憲勢力となっている。
自民党稲田朋美も安倍晋三一派であるが、生長の家の経典である「生命の實相」をボロボロになるまで祖母から受け継ぎ読んだと述べている。また、愛国教育で有名な塚本幼稚園も、この生長の家関連である。
これら一連の人々が長年積み上げてきた活動である改憲活動が、自民党の主張として国民の前に提示されているのである。

第6章 淵源

 日本会議は長い年月を通じて憲法改正を目指して活動を継続してきた。生長の家と学生運動、これがこの組織の原点である。生長の家の創始者である谷口雅春が亡くなったのは1985年である。30年以上前に亡くなっている。しかし、日本会議が目指す活動は継続され脈々と繋がっている。この流れを作っているのは誰なのか?この疑問に対しての回答が安東巌である。安東は昭和14年、1939年生まれである。一群の人達である椛島有三は1945年、衛藤晟一は1947年、百地章は1946年、高橋史郎は1950年生まれで70年安保での学生運動世帯であり、安東は人世代上である。本来なら60年安保で活躍した筈の年代である。安東は高校2年の時に大病を発した。肺動脈弁狭窄症。家が貧しく薬も充分ではない状態が続き病床生活は7年が過ぎた。1956年からの7年間は同級生達が大学で60年安保に参加し、その後、就職して行くと言う年月であった。この期間に病床にあったのは貧乏の為であり、母親を恨んだ。こんな日々に生長の家の創始者である谷口雅春に出会う生長の家の根本経典である「生命の実相」を読み、「神の子、本来、病なし」と言う言葉を繰り返し唱え最終的に上半身が動く様になった。更に、親への感謝の大切さを悟る様になって歩く事ができる様になり実生活に戻る事ができた。これが、生長の家と安東巌の出会いである。27歳で高校に復学し、1966年に長崎大学に入学する。世の中は1970年の安保改定に向け騒乱の雰囲気を醸し出していた時代である。長崎大学で6歳年下の椛島有三に出会う。この後、長崎大学の「学園正常化運動」は大きく育ち、衛藤晟、百地章、高橋史郎らが合流していく。全ての始まりは長崎大学正常化である。安東と椛島は入学して間もない頃、大学の正門前で「デモ反対、全学連反対」のビラを配ろうとした際に左翼の学生から殴られ2000枚のビラがバラバラになり踏み躙られた、この経験が起点となり、大学正常化を進める様になった。この時の不満は左翼だけでなく、何もせずにこの事態を見ていただけの沈黙を続ける一般の学生に対してだった。ここを契機に安東巌氏は対左翼活動を継続していく。早稲田大学出身の鈴木邦男氏との戦い、「理想世界」100万部運動等を通じ生長の家での位置を獲得し、谷口雅春氏の言葉の引用を用いて更に生長の家の中で不動のポジションを獲得したのが、安東巌氏である彼の継続的な活動が安部政権、及び、自民党に大きな影響を与えている。日本会議にて日本人の自覚を持たせる事を狙いとする事、機関紙並びにセミナーにて理論学習の場を確保する事、選挙に負けても復活できる場の確保としての日本青年協議会・日本政策研究センター・谷口雅春先生を学ぶ会等の立ち上げが現在にまで繋がる活動なのである。

コメント