韓国併合     森万佑子 2022年8月

▪️はじめに

 本書は従来日本からの視点のみで記載されていた韓国併合という事象を、朝鮮半島の地域研究を専門としている筆者の視点を通して、大韓帝国の成立から崩壊していく過程に注目していく。
▪️序章 中華秩序のなかの朝鮮王朝
1. 朝鮮は属国なのか ~清朝への不信と小中華思想
朝鮮は中華思想を背景とした朝貢体制の中で長く時を過ごした。この朝貢体制では、属国という表現はされているものの、朝鮮の自主性は保たれ内政不干渉が原則であった。また、宗主国である明は日本の豊臣秀吉による文禄慶長の役での侵略の際、軍隊を送り支援。行っている。この様な関係が長く中国と朝鮮は築いてきた。特に明に対しては、明滅亡後も朝鮮国王が明の太祖洪武帝の命日への参拝をするなど単にる支配と非支配の関係ではない関係である。儒教文化に関しても、中国では明亡き後、清に王朝が変わり中国では儒教文化がなかなったが、朝鮮では文化が継続された。この事では朝鮮では自分達は小中華思想、朝鮮中華主義と呼ばれる意識が朝鮮内部には存在していた。この様な精神的背景の中、1863年第25代国王に高宗が11才で即位した。実の父の大院君が実質的に政治を行った。大院君は内政的には、中央集権的国家を目指した。対外的には、西洋からの開国要求を一切受け入れなかった。(1886年、丙寅洋擾)1868年以降、明治新政府樹立を伝える書契を受け取り拒否した。1871年にはアメリカが軍艦を派遣し、朝鮮はこれに発砲応戦した。(辛未洋擾)大院君の思想は衛正斥邪といい、儒学を守り邪教邪学を排斥すると言う内容で朝鮮の支配層であった儒者達に広く指示された。豊臣秀吉により破壊された景福宮の再建工事にも着手した。
2. 条約体制下の「属国」 ー日米欧との条約、清の要求
高宗による親政は1873年から始まる。高宗は大院君とは異なり新政府樹立の書契を受け入れる決断をする。しかし、日本との宴会での衣装が日本側は西洋式、朝鮮側は明朝中華式で折り合いが、つかず日朝交渉は決裂した。1876年、日本は武力を持って日朝修好条規を締結(江華島事件)、朝鮮を開国させた。日朝修好条規の第一条には以下の記載がある。
 朝鮮は自主の国であり、日本国と平等の権を有する
この場合の自主とは、日本にとっては、朝鮮は第三国の干渉を許さない独立した国を意味した。朝鮮にとっては、清に対して従来同様の関係であると認識でき、とても曖昧な意味となっている。日本側は日朝修好条規に自分達に有利な条件を入れた。清朝の北洋大臣である李鴻章の仲介の元、アメリカと朝鮮は1882年5月に朝米修好条約を締結した。イギリス、ドイツとも同様な条約を締結した。朝鮮は清が後盾になれば、西洋、日本の侵略を防ぐ事ができると考えた。
1882年7月 壬午軍乱
俸給米の遅配に起こった旧式軍隊、及び、一般人が日本公使館を襲撃した。この運動の背景には高宗の政策に対する大院君とその一派によるクーデターであった。高宗は大院君に政権を委ね、大院君は外国と結んだ条約を否定した。壬午軍乱の報を聞き、日本と清双方は出兵した。清は大院君を拘束し清に護送した。
1882年9月 清と朝鮮
 商民水陸貿易章程を締結
この締結以降、清は朝鮮の内政に干渉していく事になった。

3.朝鮮が望む「自主独立」とは 〜甲申政変の失敗
大院君が清に連行され、高宗が政府に復帰した。しかし、大院君の政権の中枢の人達は残り、旧態依然の政策が継続された。この様な状況の中、自主独立を目指す開化派が台頭してきた。金玉均や朴泳孝等である。
1884年12月 甲申政変
金玉均らによるクーデターである。14カ条の政綱を作成。門閥を廃止して人民平等とする。地租の法を改正する等の近代改革的な内容である。しかし、これは文字通り3日天下に終わり、金玉均や朴泳孝らは日本に亡命した。
1885年 清、袁世凱が「総理朝鮮通商交渉事宜」と言う肩書きで軍隊と共に朝鮮に在留する様になり文字通り内政外交に干渉する様になった。
※朝鮮政府内部では、清からの独立ではなく従来通りの関係を継続しようとした事、清袁世凱が朝鮮内に駐留して内政外交に干渉を開始して、従来の「属国」が変化した事が大きな変化である。

1886年 日朝修好条規に従い東京に常駐使節を派遣
その後、朝鮮政府はアメリカ、英、仏、露、伊へ全権大臣を派遣した。清は、李鴻章、袁世凱はこれに反対し、様々な注文を付けたが、大臣は従わなかった。朝鮮としては、清にあからさまに独立を主張しているのではなく、朝鮮が考える中華秩序とは異なる清への反感があったのである。
1890年 高宗の即位直後に政治を行っていた大王王妃趙氏が亡くなった時、同様な問題が生じた。「属国」で国王や王妃が亡くなっ時は、宗主国である清に報告し、勅使派遣をこうのが通例だった。高宗は外国人がこの儀式を見る事を避けたがった。袁世凱に臣下の礼を見せる必要がある為である。諸外国の人から見たら記録が残っている。朝鮮は清の属国であるとの印象を受けている。
1894年 日清戦争
これらのバランスを崩すキッカケとなった。

第1章 真の独立国家へ  1894年〜95年

1894年 2月 東学農民運動
東学とは西学に対する言葉で、風水思想や儒教仏教を教理とする農民大衆の新興宗教である。朝鮮は清へ軍隊の派遣を依頼した。しかし、日本が先に軍隊を送った。済物浦条約と天津条約の2つの条約に基づいていた。日本は清からの影響を低下させ朝鮮を独立、近代化を目指すものであった。
1894年7月3日 朝鮮内政改革要求
五条からなる要求で、中央と地方の制度改正、人材採用、財政整理等である。同時に朝鮮にて清が有する全ての利益を日本にも与えると言う内容も要求された。この回答は朝鮮は自主の国であるとの回答が繰り返された。
1894年7月19日 日清戦争 開戦
戦争の主な理由は、「清韓宗属」論争である。
1894年7月23日 クーデター 大院君を首脳とする新政府を樹立である。
1894年7月25日 朝
牙山湾(あさんわん)にて日本連合艦隊の勝利。豊島沖開戦。
1894年11月までに遼東半島占領 日清戦争終了
1894年7月〜1896年2月 甲午改革 日本主導の近代化
日本の明治維新をモデルにした近代化モデル。政治、財政、金融、地方制度、警察制度、教育制度の広範に渡った改革。初代総裁は金弘集(キムホンジム)。朝鮮独自の暦を採用。清からの完全な独立を意味する。
財政改革。地方制度改革。軍事制度改革。教育制度改革。
1895年1月7日 高宗は歴代王と王妃の宗廟の前で、清からの独立を宣言。
1895年4月 下関条約締結  清は朝鮮への貢献典礼の廃止を正式に宣言。
1895年6月 園遊 朝鮮高官、外国要人も参加しての祝賀会にて盛大な催しとなった。
1895年9月4日 開国紀元節の記念式典
午後3時から接見礼、午後8時から祝宴であった。接見礼では、高宗は婦人と同伴で韓国式の正服を来ての儀式であった。祝賀会では、西洋式の立食パーティであった。韓国の高官が婦人同伴でこの様な会に初めて参加した会と考えられている。身分の高い女性は家族以外には顔を見せない習慣であったので、これは大きな変化であった。

第2章 朝鮮王朝から大韓帝国へ 1895〜97

1895年 7月 園丘壇建築指示
1895年10月 閔妃殺害
 日本公使による高宗妃の殺害。
閔妃はロシアと組んで日本の勢力を追い払おうとした。閔妃一族と対立していた高宗の実父の大院君。担ぎ出し殺害を実行。この殺害は外国人が目撃しており、国際上日本は非難される状態になり主導権を失う。
1895年11月 陰暦から陽暦へ変更
断髪令。暦 建陽。これらに対して、反日感情高揚。両班も反感。
1896年2月11日 露館播遷〜1897年2月20日
高宗は閔妃殺害を受け危険を感じロシア公使館へ逃げ込む。1年間。甲午改革の事実上終焉。
1897年6月3日 史礼所を設置
 皇帝即位の準備
1897年8月12日 断髪令、陽暦廃止
  暦 光武。明帝国への尊敬に重きを置いている。清ではない事が重要。断髪令、陽暦廃止は日本への悪感情故である。
1897年9月20日  園丘壇の新築開始
1897年10月3日 上疏受入
 これまでに部下達から多くの上疏があったが、遂に受入を決断したという形をとっている。
高宗は各国へ皇帝の称号の承認を依頼。これに対して日本が1番に皇帝の名称を用いて公式文章で返信。
1897年10月12月  園丘壇にて皇帝への即位式。韓国の祝日。
1897年10月14日 各国へ皇帝即位を伝達。国の名称を「大韓」に変更。朝鮮とは、中国から与えられた国目である為、変更。
あくまで高宗は中華思想を正しいとして明帝国の正当な後継者と自身を位置付けたかった。近代化だけを求めている訳ではない。
1890年3月9日 陸軍服装規則を洋式に変更。

第3章 新国家像の模索

1884年 甲申政変 
  キムオッキュン(金玉均)、パクヨンヒョ(朴泳孝)、ソガンボム(徐光範)
1890年  ソジェビル はアメリカへ
1894年 甲午改革
1895年12月25日  ソジェビル朝鮮に戻る
1896年2月 露館播遷
1896年4月7日 独立新聞 発刊
  ソジェビル(徐載粥) 1864年生 名門の一族
1896年5月26日ニコライ2世戴冠
1896年6月3日 露清秘密同盟
    6月5日 朝鮮と露
    6月9日 日本と露
1896年7月2日 独立協会 結成
 1896年末までに2000人
1896年10月 高宗依頼で露兵士朝鮮へ
1896年11月21日 独立門定礎式
1897年3月 校典所 設立
1897年4月 西ローゼン協定 満州は露、朝鮮は日本
1897年5月23日 独立門 改修
1897年8月29日 独立協会 討論会開始
1897年10月12日 高宗皇帝即位
1897年11月11日 独立協会 大韓帝国成立祝賀会
1897年11月 閔妃国葬
1897年12月 露朝銀行承認
1898年1月 940人定期購読者  183名 英紙購読者
1898年2月20日 独立協会 反露上疏
1898年2月27日ユンチホ会長代行
1898年3月 露財政顧問、軍事教官朝鮮を去る
1898年4月3日 独立協会討論会  議会院の設立が最緊要
1898年5月 露朝銀行 閉鎖 ソジェビル(徐載粥)出国
1898年7月9日 議会設定を上疏 高宗拒否 〜7月20日再上疏〜却下
1898年6月23日 土地測量許可
1898年6月24日 内蔵司(高宗独自の財政を担当)に高麗人参、鉱山経営権を与える
1898年9月10日 高宗誕生日  皇帝即位後、初(万寿聖節)
1898年9月11日 毒入りコーヒー
1898年10月 独立協会 拡大 4173名 モッポ、仁川まで拡大
1898年10月29日 官民共同会開催 献議6条 朴定陽(パクチョンヤン)
1898年10月30日 高宗 献議6条承認
1898年11月3日 議会設立法 
1898年11月4日 朴定陽(パクチョンヤン)罷免
1898年11月5日 高宗 独立協会会員17名逮捕
1898年11月12日 朴定陽罷免取消、17名釈放
1898年11月15日 中枢院開院 ユンチホが副議長 パクヨンヒョに高宗激怒
1898年12月22日 高宗デモ鎮圧の為、軍隊投入
1898年12月25日 独立協会に解散命令

第4章 大韓帝国の時代  皇帝統治の現実と限界

1895年5月3日 陸軍服装洋式化
1896年1月11日 断髪令  97年8月12日 断髪令取消
1898年6月在外外交官、領事館服装洋式化
1899年1月 政府高官服装洋式化
   3月 警察服装洋式化
   6月 皇帝、皇太子服装洋式化
1899年4月27日 儒教は韓国の宗教
1899年6月 法典整備の必要性
1899年8月17日 憲法制定
 韓国は独立国家である。皇帝は無限の権限を持つ。統帥権、立法権、恩赦権、官制権、行政命令権、栄典授与剥奪権、外交権を持つ。
1898年8月5日 清光緒帝は条約締結受入了承
1899年1月25日 朝鮮王朝祖宗の陵整備再開  財政的に課題
1899年6月 量田事業着手
1899年9月11日 清韓通商条約締結  清と韓国は対等な関係となる
1899年11月 日本に借款依頼
1900年4月 文官服装洋式化
1902年1月 国歌披露 7月 冊子「大韓帝国愛国歌」発行
1902年3月 高宗帝位40年記念を 10月に実施すると決定  財政的に課題
1902年7月頃 天然痘流行
1902年10月4日 高宗帝位40年 記念祝賀会延期決定
1903年4月 高宗の7男天然痘罹患

第5章 保護国への道程 〜日露戦争前夜から開戦の中で

1900年6月 義和団事件 扶清滅洋蜂起、清列強へ宣戦布告
玄暎運(ヒョンヨンウン)日本へ国友重章と「日韓攻防同盟」議論 東亜同文会会長 近衛篤麿の意向
1900年8月 連合国北京へ攻撃  露 満州占領
1900年8月7日
趙秉式(チョビュンシク)義和団事件以降、韓国は局外中立を国際的に主張
1901年1月 露は日本へ韓国の局外中立を提案、日本拒否
1901年8月以降 日露協商策放棄
1901年11月4日 外務大臣朴斉純(パクチェスン)日本軍大演習陪観
1901年11月5日 小村外相と朴斉純面談 閔妃殺害事件関係者処分 日韓協約、借款
1901年11月6日 清光緒帝から大韓帝国皇帝へ仲良くしようとの国書受取る
1902年1月 日英同盟締結
1902年2月 清北京に大韓帝国の公使館設置 赤十字社と万国平和会議へ参加表明
1903年6月23日 満州での露の撤退を決定
1903年8月 高宗は日露戦争勃発時、韓国は露を支援するとニコライ2世に密書送付
1903年8月20日玄尚健をフランスへ派遣 日露戦争勃発時への対応準備
1903年11月 ニコライ2世に朴斉純は謁見 ニコライ2世局外中立を支援
1903年12月30日 日本閣議にて日露戦争事、清韓は実力で勢力化におく事を決定
1904年1月19日 高宗から李址鎔への日韓密約への全権委任
1904年1月20日 日韓議定書が林公使に届く
1904年1月21日 大韓帝国の局外中立の宣言
1904年1月23日 李址鎔から林公使へ 日韓議定書困難との説明
1904年1月30日露との開戦決定
1904年2月4日日本は露への軍事行動開始、6日 国交断絶、8日 仁川上陸〜漢城占拠、旅順艦隊攻撃
 9日 露は日本へ宣戦布告
1904年2月23日 日韓議定書調印  (林公使,李址鎔) 6条からなる。日本は韓国に軍事上の地点を臨機収容可能。第3国への締結はお互いの承認が必要。
最も強く反対した李容翊は日本に10ケ月拉致。
1904年2月28日 李址鎔辞職願い
1904年3月17日 伊藤博文 訪韓
1904年4月14日 李址鎔が天皇拝謁
1904年3月半ば 平壌占領
1904年5月18日 韓露条約破棄
1904年5月31日 対韓施設綱領
1904年8月4日 対韓経営計画実施方針 小村外相が提示 林公使から外部大臣大李夏栄へ
        財務監督、外交顧問、条約事前確認を要求
1904年8月23日 第一次日韓協約締結 林公使、尹致昊にて調印 財務顧問:目賀田種太郎

第6章 第2次日韓協約の締結〜統監府設定、保護国化

1905年3月 日本 奉天開戦勝利
1905年4月8日 韓国保護国化の方針を日本閣議決定
1905年5月 バルチック艦隊撃破
1905年7月29日 韓国保護国化アメリカ承認
1905年8月10日 日露講和条約開始
1905年8月12日 韓国保護国化イギリス承認
1905年9月5日 韓国保護国化ロシア承認
1905年10月17日  韓国外務大臣イギリスへ抗議
1905年11月2日 伊藤博文訪韓、10日 高宗謁見希望
1905年11月9日  一進会宣言書発行〜一進会に対し反対デモ
1905年11月15日 高宗 伊藤博文に謁見、伊藤博文の高圧的態度
1905年11月16日 伊藤博文が韓国の大臣を集め保護条約の必要性を説得 
           ※漢城は日本軍による厳戒態勢
1905年11月17日 各地の日本軍が漢城に入城、午後4時から高宗隣席での御前会議
        午後8時伊藤は司令官長谷川好道と憲兵50人と共に参内
1905年11月18日午前1時過ぎ第2次日韓協約調印
 第1条:韓国は外交を日本が管理
 第2条:韓国は今後他国と約束する場合、日本の了承を要す
 第3条:皇帝直下に1名、各地に理事官をおく

1905年12月21日 伊藤博文統監就任 1906年2月1日 統監府開庁
1905年11月21日 、24日、25日  第2次日韓協約反対に対して上疏
1906年6月 高宗が各国元首に親書、第2次日韓協約は無効を主張
1907年4月2日 韓国全権委任者3人が出発、25日ハーグ到着
1907年5月22日  伊藤から高宗へ苦言
1907年6月26日 全権委任者3人がオランダ外相への会見を希望、オランダ拒否
1907年7月10日 日本閣議にて韓国内政全権掌握の天皇裁可
1907年7月6日  伊藤博文高宗皇帝 攘夷ほのめかす
1907年7月16日 李完用高宗へ攘夷上疏
1907年7月18日夜 高宗皇太子への軍事代行を詔勅
1907年7月19日 大韓政府攘夷を日本政府へ通達
        高宗は、皇太子が皇帝即位の儀式を行う様に決定
1907年7月20日 攘夷式終了、 ハーグへの密使3名厳罰、民衆、近衛兵激昂、李完用宅焼かれる
1907年7月23日 第三次日韓協約交渉開始
1907年7月24日 伊藤博文が李完用と宋秉畯へ第三次日韓協約を手渡、承認。宋秉畯は一進会の中心人物。韓国の大臣任命は日本了解必要
1907年7月29日高宗は太皇帝へ 8月2日 隆熙(りゅうき)へ名称変更
1907年8月27日 皇帝即位式

第7章 大韓帝国の抵抗と終焉〜1910年8月の併合へ

1904年8月18日 維新会発足  20日 一進会に名称変更 宋秉畯が中心 日本名:野田平次郎
1904年9月頃 進歩会発足 李容九(イヨング)が主導 東学教徒を源流とした組織
1904年12月2日 一進会と進歩会合流
1905年5月 光武学校を設立
1905年11月17日 第2次日韓協約 首都に統監府 伊藤博文統監就任 
          一進会が第2次日韓協約に賛同
1906年3月3日 1000万円の企業資金を朝鮮に貸与
1906年4月4日 大韓自強会設立 ユンチホ(尹致昊)主導
1907年5月22日   イワニョン(李完用)が内閣組閣
1907年6月 内閣官制採用
1907年7月20日 高宗譲位
1907年7月31日 軍隊解散 9月3日までに2250人解散
1907年7末から 司法制度改革
1907年8月 大韓自強会解散
1907年8月7日 純宗の弟、李垠(イウン)東京へ留学 梨本宮方子と結婚
1907年8月27日 純宗皇帝即位
1907年 9月〜 義兵 柳麟錫(ユインソク)、崔益鉉(チェイッキョン)
1907年10月3日 宗廟行幸
1907年11月13日 徳寿宮、昌徳宮行幸
1908年6月 内閣から一進会の多くが更迭
1908年8月 私立学校令公布 伊藤博文が東洋拓殖会社設立
1909年1月7日〜13日 純宗南巡行幸
1909年1月27日〜2月3日 純宗北巡行幸
1909年4月10日 韓国併合案、伊藤承認
1909年5月14日 伊藤博文統監辞任
1909年6月14日 曽禰荒助統監就任
1909年10月26日 伊藤博文暗殺 安重根(アンジュングン)朝鮮人独立運動家
1909年10月29日 韓国銀行設立
1909年12月4日 一進会 日韓合邦声明書
1910年5月30日 寺内正毅統監就任
1910年7月23日 寺内統監仁川入港
1910年7月25日 純宗皇帝、高宗太皇帝に謁見
1910年8月16日 寺内統監、李完用総理大臣に韓国併合方針覚え書提示
1910年8月22日 韓国併合第一条から第八条から成る
     25日 各国へ通告
     29日 公布 純宗:昌徳宮李王殿下、高宗:徳寿宮李太王殿下

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