- プロローグ 「全ての愛は初恋である」
- 第1章 誰が新しい日を恐れよう
- 第2章 故郷に置いてきた話
- 第3章 学而時習
- 第4章 愛するということ
- 第5章 引き裂かれた山河
- 第6章 泣くな!
- 第7章 革命、そしてクーデター
- 第8章 10年目の帰郷
- 第9章 世界の潮流の中で
- 第10章 それは選挙ではなく戦争だった
- 第11章 新しい始まりのために
- 第12章 大統領選挙の表と裏
- 第13章 闇を衝いて
- 第14章 死と生の狭間で
- 第15章 理解し難きこと
- 第16章 大地震前夜
- 第17章 余りにも短かったソウルの春
- 第18章 死刑宣告、無期懲役、そして追放
- 第19章 長き苦難の旅路へ
- 第20章 願いとは裏腹に
- 第21章 想い再び
- 第22章 冬長き国の春
- 大統領就任のあいさつ
プロローグ 「全ての愛は初恋である」
人生で大切な事は、学びであり自分以外の人は師である。人との出会いこそを政治家である自分は大切に思ってきた。
第1章 誰が新しい日を恐れよう
1980年の光州事件にて死刑判決を戒厳令軍法会議にて宣言された。罪名は、内乱陰謀罪である。わずか6分の会議での決定であった。しかし、この決定は世界中に展開されヨーロッパ各国やアメリカ、ロシア、中国、日本等から批判が上がった。軍事政権から手を組めば助けてやるという誘惑に惑わされる事なく自分の信念を持てたことはキリスト教の教えが基本にあると思われる。
第2章 故郷に置いてきた話
母は張守綿、父は金泳三雲植である。母は精力的であり村一番の財産家になった。父は村長をしており日本の天皇に対して反発心を持っていた。母からは独立精神と正邪判断力、父からは民族的精神と指導力、政治力を学んだ。木浦から船に乗っていく荷衣島(ハイド)に家族で住んでいた。
第3章 学而時習
7歳になった時、書道と言われる漢学者の塾に通う事となった。荷衣島には小学校がなかった。母はこの当時から金大中に高等教育を受けさせると語っていた。後、荷衣島にも小学校ができ2年生として編入された。4年生になった段階で島の財産を全て売り木浦に引越しし宿屋を始めた。木浦第1小学校に転入した。首席で木浦第1小学校を卒業した。金大中が5年生の時、学校での韓国語の使用が禁止された。日本語のできない父が学校にきて何も喋る事ができず、そのまま帰った記憶が彼の心に強い痛みとして残った。小学校卒業後、全国でも有名な1939年に木浦商業高校に首席で入学した。入学後、日本式の名前に変える事を強いられた。これは韓国人にとって耐え難い屈辱であった。この名前に変えた後、成績は落ち始めた。日本人の先輩達のイジメにもあった。卒業時には169人中、39番まで落ちた。1943年の秋に刈り上げての卒業であった。真剣に勉強しなかった事、繰り上げての卒業になった事は金大中にとって恨として残った。
第4章 愛するということ
木浦商業高校卒業後、日本人の経営する海運会場に就職した。そこで、車容愛(チャヨンア)さんと恋に落ちた。日本帰りの女性で友人の妹だった。彼女の父は当初、反対したが、彼女の意志を確認してからは応援してくれた。1945年4月9日、金大中20歳の時に結婚した。弘一、弘業という2人の息子を産み、事業に対しても、政治に対しても内助の功を発揮してくれた。しかし、彼女は亡くなってしまった。しかし、彼女は家族の中に永遠に生き続けている。
第5章 引き裂かれた山河
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。この時、金大中はソウルで仕事をしていた。ソウルから木浦までの400kmを20日かけて歩いた。しかし、家に着いても家は人民軍に封鎖されていた。家財道具はスプーンに至るまで没収され、更に、妻は2人目の子供を出産の時で防空壕での出産であった。木浦で家族と一緒であったのは2日だけだった。人民軍の掌握する警察に連行された。何人もの人が処刑される中、警察を脱獄して九死に一生を得た。その年の終わりに海上防衛隊に参加し、ゲリラ部隊の掃討するら任務についた。愛国心故の参加である。全羅道地区の副司令官になったが、翌年組織は解散となった。
第6章 泣くな!
1951年秋、事業は順調で船10隻、新聞社「木浦日報社」を経営していた。
1954年、30歳で初めての選挙に無所属で出馬した。しかし、与党である自由党政権が警察に圧力をかけて無所属候補ではなく自由党候補者を支持するよう不正を行い落選となった。
1956年、民主党に入党し、張勉副大統領の元についた。民主党から選挙に出るのであるが、木浦には既に候補者があり、任された場所は38度線付近の軍人とその家族が多い場所であった。
1958年5月、自由党により候補者登録さえできなかった。
1959年6月、補欠選挙にて立候補したが、自由党の不正により落選した。アカのレッテルを貼られどん底であった。このどの底の時、車容愛はこの世を旅立った。
第7章 革命、そしてクーデター
1960年7月、落選。
1961年5月14日、民議員選挙当選。民主党のスポークスマンに選ばれる。
1961年5月16日 朴正煕クーデター
7年の苦労の末に選挙に当選したが、クーデターの影響で議員席に座る事なかった。それだけでなく警察により刑務所に収監された。容疑は汚職と容共である。結局、容疑はなく解放された。
1962年5月 李姫縞と結婚。しかし、10日後、金大中は刑務所に収監された。容疑は反革命である。1ヶ月間収容された。李姫縞は妻であると共に政治的な同士である。家の表札には、金大中と李姫縞の名前を掲げている。
第8章 10年目の帰郷
1963年2月27日 政治活動浄化法が解けて自由に政治活動ができるようになり、この年の国家議員選挙にて当選した。今回は地元の木浦からの出馬ができた。しかし、この時の木浦は与党が大変強い時で、苦戦の中での当選だった。しかし、党としては惨敗で170議席中、13議席しか取れなかった。これか実質初めての議員バッチである。また、この時代に妹を心臓弁膜症で失った。妹は最後まで兄の政治活動を応援していた。
第9章 世界の潮流の中で
金大中は日韓国交正常化での野党側の対応について、全面否定だけの姿勢では逆に与党に何も改善を期待できすに終わると考えていた。世界の潮流は、日本と韓国とアメリカが東アジアにて共同体を作り、中国・北朝鮮・ソ連との対応を強化すべきである事、また、当時、ベトナム戦争でのアメリカの苦境であった。これらの世界の潮流の中で、日韓国交正常化にあくまで反対という姿勢でいる事は、アメリカも朴正煕政権を利用する以外に道がなく、なんら修正達も議論もされる事なく与党案が通過する事になり、広島の韓国人被爆、強制徴用、従軍慰安婦、サハリンからの帰還、独島問題等、全て解決できず現代までに至ってしまっている。野党はとにかく全面反対ではなく、1つ1つ案件毎に精査して与党と議論すべきであると主張している。
第10章 それは選挙ではなく戦争だった
1967年国会議員選挙は金大中にとって大変重要な選挙であった。朴正煕はなんとしても金大中の当選を阻止しようとあらゆる主体を講じた。朴正煕の次の狙いは自信が憲法を変えてでも大統領3選を成功させる事であり、その最も大きな障害が国会議員に当選し反対意見を述べる金大中なのである。その為、自身が木浦に遊説することだけでなく、全閣僚を参加させた国務会議を木浦で行い木浦に大学を作るというバラ色の会議をするという内容まで実行した。選挙の立会人の買収、停電を利用した不正等々を行った。しかし、民意は金大中を選択した。この1967年国会議員選挙は、金大中と朴正煕の対決を象徴する出来事である。
第11章 新しい始まりのために
1970年、新民党の金泳三は40代旗手論を宣言して、金大中・金泳三・李哲承の3人から次のリーダを選ぶという事を主張した。9月の新民党の党大会はこの背景で始まり、結果は一次選挙では金泳三がトップであったが、2次選挙では金大中が逆転して野党の大統領候補となった。この時の金大中の公約は、南北統一・記者団相互受入・非政治分野の交流・4大国による戦争抑止保障であり国民から大きな反響があった。朴正煕政権からは常にアカのレッテルを貼られ続け苦境に立ち続けた。また、アメリカと日本に大統領選挙の2ヶ月前に訪問し朴正煕政権の選挙不正監視を目的で訪問し各国の主要な人達との人間関係を構築した。
第12章 大統領選挙の表と裏
1971年4月、大統領選挙が行われ94万票差で朴正煕が勝利した。多くの不正が行われたが、朴正煕は94万票差しか差が開かなかった事を問題視した。金大中の遊説には多くの観衆が参加した。1例を挙げれば、金大中の遊説の日時に合わせて、野遊会という公務員や公共団体の職員に強制的に参加させ金大中の遊説にいけなくする等である。また、選挙投票でも金大中への投票を無効にする等の不正があった上での94万票差を朴正煕は心配したのである。
1971年5月 国会議員選挙では大統領選挙での不正に抗議して国会議員選挙ボイコットが国会議員や大学生によってなされた。5月25日、選挙の2日前に交通事故が起こった。この車は与党側の弁護士の車だった。裁判でトラック運転手は起訴されたが、直ぐに起訴した検事は左遷され新たに就任した検事は、単なる交通事故と処理して、報道も政府により統制され一般には報道されなかった。この事故により足が不自由になった。国会議員選挙の結果は、野党として憲法改正を阻止できる65議席を大きく上回る89議席を獲得した。
第13章 闇を衝いて
1972年10月17日、交通事故での治療の為、日本にいた時、朴正煕による第2のクーデターが起こった。戒厳令が発動され国会は解散、政治活動中止となった。ここから金大中の政治亡命が始まった。日本にいて朴正煕批判を行った。この中で韓国ではこの年の12月に大統領選挙があり、朴正煕が99.9%の支持で当選した。金大中はアメリカにも行って朴正煕の軍事政権の悪事を説明したが、基本的にアメリカ人は韓国に対して余り関心持ってなく、日本に戻り朴正煕政権批判を継続した。この期間、家族はソウルで政府の監視下にあり、寒い冬の中で燃料費節約の為、電気毛布だけでの生活であり金大中にとってこの部分が心に痛かった。
第14章 死と生の狭間で
1973年8月8日、金大中拉致事件は発生した。東京パレスホテルに宿泊しており、韓国野党の党首である梁一東との面談が計画された。朴正煕政権の中央情報部が金大中を狙っているとの噂があり、警戒をしていた。梁一東は駐日韓国大使館から金大中に面会したいとの情報があり、金大中と会うとの情報を駐日韓国大使館に出しており、これがワナだった。金大中は朴正煕からの指示を受けた犯人達に、殺人未遂と拉致という犯罪が日本の大都市のホテルで堂々と行われた。東京から高速で移動し、ある海岸でモーターボートに移され海に投げられそうになったが、その後、このモーターボートは飛行機により発見され、殺人は回避された。その後、徳島の近海を通り韓国の港に着いた。医師の手当を受けアメリカ軍の車に乗り換え睡眠薬を飲まされ気付いた場所は軍人たちが見張っている部屋だった。
8月13日、拉致6日後、何故海外で国家批判をするのか?という質問を受け、与党に入るならポストを準備する等の懐柔があったが、断った。その後、ソウルの自宅近くまで目隠しをして移動し、小便をしたら目隠しを取ってくださいという指示があり、その指示通り実施した結果、自宅に近いガソリンスタンドである事が分かった。関係者は影も形もなく消えていた。
第15章 理解し難きこと
金大中拉致事件は1973年8月8日の拉致から、8月13日自宅付近での開放で一旦終了する。しかし、この事件は色々な意味で後々大きな影響を持った。韓国政府は当初、韓国政府はこの事件に全く関与していないと発表したが、日本の警察による証拠が提示され組織的関与である事を認めざるを得なくなり韓国政府から日本政府への3億円という裏金が渡るという闇になった。また、金大中自身にとっても、この事件後自宅軟禁が続き、自宅の周囲は常に監視員がいるという状態が1987年6月29日宣言まで続いた。14年間に渡る軟禁となった。日本政府と韓国政府との関係では、在日朝鮮人・文世光を挙げなくてはならない。朴正煕への銃弾発射により、朴正煕の妻の陸映修が死亡した。
第16章 大地震前夜
1976年3月1日 ソウル明洞聖堂にて、民主救国宣言が金寿煥枢機卿によりなされた。尹潽善と咸錫憲と金大中の3人が求心力となった活動である。朴正煕の退陣を要求しており刑罰を受ける事になった。1977年に懲役5年、資格停止5年という厳しい内容で、監獄に収監となった。その後、1978年朴正煕が第9代大統領となった際、御社で監獄から開放された。そして、1979年10月27日、朴正煕暗殺の連絡が金大中に届く。金大中は朴正煕と一度会いたいと朴正煕と共に射殺された車智澈に伝えていた。
第17章 余りにも短かったソウルの春
1979年12月12日全斗煥によるクーデターが起こった。1980年1月、理由なく連行され軍事裁判で死刑の宣告を受けた。しかし、3月には復権する事ができた。5月頃、学生運動が反政府的になってきた。5月17日、政府は国務会議を開き戒厳令を全国に拡大する事を決めた。そして、民主運動のリーダーを26人逮捕した。5月15日、金大中は、南山の中央情報部の地下室に連行され、再度逮捕される事になった。この逮捕が逆に身を守る事になった。
第18章 死刑宣告、無期懲役、そして追放
1980年5月18日、光州事件が発生した。42日目の1980年6月28日、金大中の所に合同捜査本部の実力者が来て協力を依頼したが、断った。2日後、再度来たが、断った所、内乱罪と反国家団体首魁罪で、光州暴動を起こした罪である。判決は死刑である。8月7日、全斗煥が大統領に選ばれた。言論統制がかってなく実施された。金大中の家族はこの様な中でも妻を中心に結束してした。この家族の結束がなければ、金大中といえども戦えなかった。全斗煥が大統領になって死刑から無期懲役に減刑された。清州矯道所に移管され読書の日々になった。また、花を育てる事にも注力した。1981年2月1日、新憲法により全斗煥は第12代大統領に選ばれた。この恩赦により刑期は20年に軽減された。1982年12月23日、家族でアメリカに渡った。エドワード国際空港では300人もの人が歓迎で金大中の名前を連呼してくれた。世界のひとが自由の回復の支援をしてくれていた。
第19章 長き苦難の旅路へ
アメリカに着くと韓国の民主化のカウントします講演会を精力的に実施した。交通事故による股関節の治療もジョージタウン大学が無償で対応すると宣言してくれた。一流の治療を受ける事ができたが、現状維持以外の方法はなかった。一方韓国国内では金泳三が光州事件3年を前に断食闘争に突入した。決死の覚悟の断食であり、この断食を通して金泳三と金大中は民主化推進協議会を発足させた。1985年2月8日韓国に帰国したが、世界中の人が心配してくれた。同時期にフィリピンでアキノ氏がフィリピンの空港に着いた途端に政府関係者に射殺されたからである。しかし、金大中を迎えた民衆は30万人にも膨れ上がり暗殺できる状況では無かった。帰国の目的は、2月2日の国会議員選挙への出場である。新しくできた新民党は第1党になる事ができた。そして、全斗煥・盧泰愚から6.29宣言を引き出す事ができた。
第20章 願いとは裏腹に
1987年大統領選挙では、野党候補である金大中と金泳三の一本化ができず盧泰愚が当選した。これを金大中は後悔していると記載している。大韓航空機爆発事件での金賢姫がインタビューに登場して北朝鮮、アカとしての金大中への誹謗中傷を全斗煥は展開した。このせいもあって金大中は1987年大統領選挙では勝てなかった。しかし、5ヶ月後の国会議員選挙では金大中率いる平民党は70議席を獲得し、与党が過半数割れする中、存在感を増した。
1992年12月の大統領選挙でも金大中は勝てず、金泳三が当選した。敗北が確定した12月19日、政界引退を発表した。5度の死線超え、6年の獄中生活、10年の軟禁生活と海外亡命生活を経て、遂に政界引退を決断した。
第21章 想い再び
1992年12月の大統領選挙が終わった新年早々から、ケンブリッジ大学に留学した。1993年6月3学期が修了し、約6ヶ月の留学は終わった。この留学でヨーロッパでのドイツの統一の現実を知る事ができた。経済力の弱い東ドイツを強い西ドイツが吸収する形で進んだが、様々な問題を持っていると理解できた。生活としては、とても穏やかでスズメやロビンとの触れ合いの中で過ごす事が出来た人生の中での幸せな一時であった。
第22章 冬長き国の春
1993年ケンブリッジ大学留学から帰ってきて、政界復帰を宣言した。与党が野党の存在に対して気にもしていない事、野党は野党としての役割を果たしていない、これらの状態に対して断食闘争する事にした。しかし、統一は金大中に取って悲願であり、留学から帰ると直ぐアメリカに行きクリントンを説得して、カーター元大統領を北朝鮮に訪問し金日成との会談を成功させた。
大統領就任のあいさつ
1998年2月25日、金大中は第15代韓国大統領に就任した。73歳であった。就任の挨拶の中で、金大中は完全な政権交代を韓国史上初めて完墜した事を喜んでいる。韓国の民主化を生涯かけて望んできて金大中氏ならではの心である。この就任の挨拶の中で、情報化革命という言葉、文化産業としての観光産業・映像産業を述べている。なんという先見の明であろう。また、地域差別をなくし南北を統一し1300年間維持してきた朝鮮民族を一つにしたいという思いを語っている。自身の名誉ではなく本当に韓国を愛し大切に思えばこその挨拶でると感じた。
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