はじめに
戦後、南北分断となった朝鮮半島は北朝鮮が世襲となったが、韓国では13人が大統領となった。初代李承晩から盧泰愚までは33年間は独裁政治である。しかし、一般大衆の支援を受け金大中・金泳三が民主化に大きく貢献した。保守から進歩への選挙での交代は、金泳三(保守김영삼)、金大中(革新김대중)、盧武鉉(進歩노무현)、李明博(保守이명박)、朴槿恵(保守박근헤)、文在寅(進歩문재인)、尹鍚悦(保守:ユン•ソンニョル윤석열:発音윤성녈)なっており保守と進歩の政権代が実現されている。盧武鉉政権時2004年、不可解な事件を明らかにする真実委が設置され、2005年真実和解委員会として国会期間として位置付けられ人権侵害を調査している。韓国の民主主義の犠牲になった多くの人達を思うと、後世の我々は絶対にこれらの人達の血と汗は忘れてはならない。
第1章 朴正煕軍事独裁政権の終焉
1.金大中拉致事件と日本政府の対応
1961年5月に朴正煕はクーデターを起こし実権を掌握して1963年大統領選挙で勝利した。大統領としての3期目を狙う1971年強敵が会わられた。金大中である。この大統領選挙では朴正煕は勝利したが、不正選挙との指摘もあり独裁者としては、今後の脅威を感じた。そこで、韓国の情報機関であるKCIAを使って金大中拉致暗殺を計画する。1973年8月8日、東京にて実行された。実行犯は金大中を拉致し東京から大阪へ移動し8月9日船で釜山に移動し13日ソウルの金大中自宅で解放した。拉致計画が露見し両国政府の外国問題に発展した事から解放となった。この問題は2つの問題を有している。1つ目は金大中氏への人権侵害である。2つ目は、日本国内での韓国政府による不法行為である。しかし、同時の日本政府田中首相、大平首相らと韓国朴正煕との間で政治決着となっており真の問題解決となっていない事が本質的な問題である。政治的決着では3億円が田中首相に流れた等の内容もあり大きな問題である。
2.朴正煕大統領狙撃事件 (文世光事件)
大阪在住の在日2世の文世光が1974年8月15日朴正煕大統領を狙撃したが命中せず、警護室長との銃撃戦となり4発目が陸栄修大統領婦人に当たり婦人は死亡した。文世光は23才の在日2世で1951年生まれ、高校時代から左翼思想に傾倒した。1973年10月頃、朴正煕暗殺を思い立つ。高校時代の友人である吉井美喜子が協力して夫名義の旅券を取得して香港・韓国に渡航しピストルを入手しようとするが、失敗した。1974年7月18日文世光は大阪府南警察署からピストル2丁を盗んだ。8月6日韓国に入国しソウルの高級ホテルに滞在した。8月15日、式典である国立劇場に入り朴正煕大統領を狙撃した。
1974年9月12日、文世光は起訴され12月17日最高裁で死刑判決が支持され、12月20日執行された。
1974年8月30日、朴正煕大統領は日本政府の対応に不満の意を表明し、9月2日韓国外務大臣が後宮大使に口述伝達した。また、9月6日には韓国国内で反日感情が一気に爆破しソウルの日本大使館前に講義のデモ隊が押し寄せ日章旗を引き摺り下ろす事態に至った。9月19日田中首相は自民党副総裁の椎名悦三郎を政府特使として訪韓され遺憾の意を表明した。
(3)朴正煕大統領暗殺事件
1979年10月26日朴正煕大統領は部下に射殺された。射殺した犯人は金載圭KCIA部長である。これは大行事と言われた朴正煕と取り巻きの飲み会での出来事である。この飲み会に参加したのは朴正煕、金載圭、金桂元(秘書室長)、車智澈(警護室長)の4人とホステス役の2人の女性である。日頃から車智澈は警護室長であるが、国会議員等を子飼いにして情報を集め、いち早く朴正煕大統領に報告していた。本来は金載圭KCIA部長の仕事であり、車智澈の事を不快に思っていた。当時、釜馬事件があった。これは1975年5月新民党総裁に就任した金泳三が朴正煕政権に対して批判的であり、朴正煕は金泳三を国会議員から除名した。野党議員は集団で辞任届を提出し抗議した。この動きは金泳三の地元の釜山に波及し大学生のデモとなった。デモは釜山から馬山にも拡大した。これが釜馬事件である。この飲み会で、この釜馬事件が話題になった。朴正煕は車智澈からの情報を正しいと考えており、KCIAの仕事が適切ではないので、この様な状態になっていると金載圭に、対して厳しい指摘をした。これに対して金載圭は、車智澈の情報は正しくなく、且つ、車智澈のけしたてる様な表現に対して、車智澈を射殺すると共に朴正煕も射殺したのである。これは決して無計画でなく周到に計画されたものだった。しかし、射殺するまでの計画しかなく朴正煕大統領射殺後の事までは計画がなく、新軍部である全斗煥が実権を握る事になった。18年に及んだ朴正煕の独裁政権は一瞬にして消え去った。
(4)永遠のライバル 朴正煕と金大中
1963年国会議員選挙にて金大中は野党のスポークスマンとして軍事政権を、批判した。朴正煕はこれを危険と判断し金大中の地元である木浦にまで行って与党議員を応援した。逆にこの行為が金大中の存在感が上がった。
1967年大統領選挙に再選した朴正煕は大統領の三選禁止を改正して大統領選挙に、1971年立候補した。この時の野党の大統領候補が金大中である。様々な不正により朴正煕が勝利したが、まともに戦ったら勝てないと判断し、1972年大統領特別宣言を行い、憲法を修正して自身が終身大統領が可能となった。この様な中で生じたのが、1973年金大中事件である。
朴正煕は破綻に直面した韓国経済を立て直す為に、日韓国交正常化を推進し日本から導入した対日請求資金を基幹産業育成に優先的に使用して経済発展の基盤を造った。金大中は40年に渡る苦難の政治生活を送り民主化運動を進め4度目の挑戦で大統領に昇りつめた。この2人は韓国現代史に大きな足跡を残したと言える。
第2章 全斗煥新軍部政権の登場
(1)新軍部がクーデターにより政権を掌握
1979年10月26日 朴正煕射殺
1979年10月27日金載圭情報部長逮捕
非常戒厳令鄭昇和戒厳令長官、全斗煥は合同捜査本部本部長
1979年12月6日 崔圭夏大統領就任
1979年12月8日 民主化運動の学生、教授が復帰
1979年12月10日 申鉉碻国務総理就任
1979年12月12日 全斗煥による軍事クーデター
午後6時30分頃 全斗煥は崔圭夏大統領に鄭昇和連行の許可を求めるが、失敗した。
全斗煥は自分の判断で軍を動かし鄭昇和を拘束した。
午後8時20分 尹誠敏参謀次長は首都圏に非常命令を発令
午後9時30分頃 全斗煥は崔圭夏大統領に再度、脅迫したが、鄭昇和連行の許可は得られず。全斗煥は勝手に軍を動かす判断をした。クーデターは成功した。反乱軍はソウルに入り幹部を次々に逮捕して武装解除させ無血でのクーデター成功であった。
1980年1月20日 全斗煥は人事刷新。
旧軍部の幹部を予備役に入れ、新軍部の人材を主要ポストに当てた。
1980年4月14日 全斗煥はKCIA部長代理就任。
1980年5月13日 高麗大学で学生デモ、ソウル駅前に10万人
1980年5月17日 全斗煥は戒厳令を全国に拡大した。
金大中を内乱罪で逮捕した。金泳三を自宅軟禁した。
1980年5月18日 光州の全南大学、朝鮮大学のキャンパスに空挺特戦団第七旅団が進駐した。ヘリコプターからデモ隊に銃撃した。午後1時頃、20台以上の軍用トラックが集結し暴動を鎮圧した。
1980年5月19日 戒厳軍による無慈悲な暴力により市民蜂起へと繋がった。
1980年5月20日 デモ群衆は数万人に達した。
午後5時50分、5000人以上もの群衆が道庁に突撃した。綿南路には20万人以上の群衆となり、放送局を占拠した。午後9時頃、光州市役所も占拠され市内の大部分はデモ隊に占拠された。
1980年5月20日 光州事件の責任をとって全閣僚が辞任した。戒厳軍はデモ隊に発砲した。
1980年5月21日 夜8時までに戒厳軍は光州市内から撤退した。
1980年5月22日 金大中内覧陰謀事件の中間報告を発表した。
市民は武器を回収したが、戒厳軍は光州包囲網を構築した。
米国連合軍司令官が韓国軍事当局の要請に応じ韓国軍の一部を光州に移動する事を許可した。戒厳軍は激しい銃撃戦を展開して双方に多数の死傷者が出た。
1980年5月27日 戒厳軍は空と陸の両面から作戦を実行し光州市を完全に制圧した。
1980年8月14日 戒厳司令部は金大中を内覧陰謀等の罪で起訴した。
1980年8月16日 崔圭夏大統領が光州事件の責任をとって辞任
1980年8月27日 全斗煥が大統領に就任
1980年9月17日 金大中に死刑の求刑
1980年11月3日 控訴審の判決にて再度、 金大中死刑求刑
1981年1月13日 大法院の上告 無期懲役に減刑
1995年 全斗煥、盧泰愚逮捕
1997年 12月 全斗煥、盧泰愚釈放
2021年 10月26日 盧泰愚死去
2021年11月23日 全斗煥死去
(2)ビルマ訪問のラングーン事件
1983年9月9日 北朝鮮のテロリスト3人が東建愛国号と言う船に乗ってラングーン港に向かった。
1983年9月15日 東建愛国号はラングーン港に到着した。
1983年10月6日 現場であるアウンサン廟を下見しアウンサン廟の屋根裏に爆弾を隠した。
1983年10月8日 全斗煥含む165人で南アジア訪問団がラングーン空港に到着した。
1983年10月9日 テロリストは全斗煥が乗る車を待ったが、予定よりも4分遅れて全斗煥の乗る車は到着し殺害する事はできなかった。
1983年12月9日
テロリストの生き残った2人に対して死刑が求刑された。しかし、嘆願により1人は無期懲役となった。
(4)全斗煥政権の強権政治と民主化運動
1980年8月27日 全斗煥暫定大統領選任
1980年11月3日 「政治風土刷新のための特別措置」を制定し、金大中、金泳三らを含む政治家567人の政治活動を禁止した。
1981年2月25日 全斗煥第12代大統領就任
1985年2月 国家議員選挙にて政界復帰した野党議員が全斗煥政権に対して対決姿勢を鮮明にした。
1985年8月24日 中国空軍爆撃機が韓国に不時着
この出来事での政府による東亜日報への編集局長、政治部長、担当記者への過酷な拷問が3日間なされた。
1985年9月1日 東亜日報の記者80人による「我々の立場」と言う決議文を発表した。
1987年1月14日 朴鍾哲拷問致死事件
ソウル大学の朴鍾哲さんが、警察の拷問を受け死亡した。
1987年4月13日
全斗煥は「4.13護憲措置」を発表した。オリンピックのある1988年まで国論を2分する改憲論議は中止すると言う内容である。
1987年5月1日 金大中と金泳三は民主党を結党した。
1987年5月18日
・ソウル明洞のカトリック教会で「光州民主化運動7周忌ミサ」が行われた。この時、朴鍾哲拷問致死事件が警察のでっちあげであり、本当は警察の拷問による死亡事件であつたと説明された。担当検事から中央日報の記者が真相を聞き出し特ダネとして報道した。これにより民主化運動は加速した。
1987年5月26日 全斗煥は拷問致死事件での世論の突き上げにより内閣改造を実施した。
1987年5月27日 護憲措置撤廃の運動本部設立。 金大中、金泳三らが顧問となる。
1987年6月10日
・延世大学で1000人以上の学生に対して警察が催涙弾を発砲し、李韓烈さんの後頭部に直撃し7月9日日に死亡した。
ソウルの各地で集会が開かれ一般の市民も参加し、ネクタイ部隊と言われた。この状況で警察はデモ隊を無差別に逮捕した。デモ隊はカトリック教会に逃げ込み立てこもった。ソウルオリンピックを成功されたい政府は警察の強制連行を防ぎ5日間の籠城は平和的に終わり全国にデモを拡大させる大きな役割を演じた。
・全斗煥は与党の次期大統領候補に盧泰愚を選出した。
1987年6月26日
民主化運動が全国で行われ180万人以上が参加した。警察もこの民主化運動を止める事は出来なかった。軍を使う事はアメリカの反対もありできなかった。
1987年7月9日
李韓烈さんの葬儀が行われた。ソウルで100万人、光州で50万人、釜山で30万人が、李韓烈さんを追悼した。
(5)民主化を促進させた全斗煥の強権政治
全斗煥は朴正煕死亡後、クーデターにより国の全権を掌握した。これにより道徳性、正当性がなく国民からの支持がなく、益々強権的になり、更に国民からの支持がなく、返って民主化を推進したと言える。光州事件は多くの犠牲者を出した悲運の事件であり負の遺産を多く残した。
第3章 軍政延長の盧泰愚政権 ~民政への移行期
(1)軍政維持と民主化推進の狭間
1987年6月29日
民正党盧泰愚大統領候補は民主化宣言を発表した。全斗煥大統領も了解した。内容としては、大統領直接選挙・大統領選挙法改定・金大中釈放・国民基本権伸展・言論自由の拡張・地方自治制・政党活動の保障・社会浄化の推進などである。大統領の任期は5年・再選無し。大統領の非常措置権と国会解散件は無し、労働者の団体権と交渉権が認められた。
1987年11月29日
大韓航空機858便爆破事件発生。北朝鮮工作員金勝一と金賢姫の犯行である。
1987年12月15日
金賢姫が金浦空港へ移送される。
大統領選挙に利用された。国民の感心を航空機爆破事件と金賢姫に注目させた。
1987年12月16日
第13代大統領選挙実施
盧泰愚828万票、金泳三634万票、金大中611万票。
大統領選挙直後は、全斗煥は国家元老諮問会議議長として人事権を掌握した。盧泰愚は大統領就任後、全斗煥の影響を小さくする為、国家元老諮問会議の規模と権限を縮小した。更に全斗煥の弟を逮捕した。
1988年4月 国家議員選挙
全斗煥の側近を候補者から排除したが、選挙で、与党は敗北した。全斗煥一族数人を不正疑惑で逮捕したが、世論は不十分だった。光州事件に、加担した鄭鎬溶国家議員の辞職と全斗煥の聴聞会の証言台召集であるが、「記憶にない」を連発して国民は激怒し、全斗煥はお寺に2年間籠った。
1990年1月
盧泰愚、金泳三、金鍾泌が3党合意し民自党を結党した。党内政治で勝利した金泳三は党内の主導権を掌握した。
(2)ソウルオリンピックの開催成功
1980年12月
韓国政府は第24回オリンピックのソウル招致をIOCに伝達し準備開始した。
1981年5月
現代グループ会長の鄭周永がオリンピック推進委員となる。
1981年9月20日
オリンピック招致活動開始。鄭周永が主導となり韓国企業が各国企業を通じて、各国のIOC委員に働きかけを精力的に実施した。
1981年9月30日
オリンピックIOC総会にて名古屋に勝ち、ソウルがオリンピック開催会場に決定した。当初は名古屋が有利であつたが、これを破りソウルが選ばれた。
(3)盧泰愚政権の内政と外交
1989年2月1日
ハンガリーと国交樹立を皮切りに、東欧諸国と国交樹立した。
1990年5月24日〜26日
日本を公式に訪問し、天皇陛下、海部総理から直接お詫びを受けた。盧泰愚大統領からは、古代からの両国の関係はお互いに大きな影響を与えたと前向きな発言をした。日本の国会で韓国国家元首として初めて演説を行った。
1990年6月4日
ゴルバチョフソ連大統領と韓ソ首脳会談実施した。
1990年9月30日
ソ連と国交樹立し、モスクワを公式に訪問した。
1991年9月
韓国と北朝鮮が同時に国連に加入した。
1992年8月24日
中国と国交準備
(4)軍政から民政への橋渡し役
軍政から民政への橋渡し役として、一定の成果を盧泰愚は上げたとは言える。軍政時代からの各種既得権益を持つ勢力の排除等での成果はあるが、退任後も巨額の統治資金という名目の莫大な私腹を肥やしていた事も明らかににっている。
第4章 軍政から民政への政権交代
(1)金泳三による「文民政府」誕生
1992年2月 文民政府誕生。クーデターに関する全斗煥、盧泰愚等に対する告訴相次ぐ。
1994年5月13日 光州事件に対する全斗煥、盧泰愚等に対する告訴相次ぐ。
1995年11月24日 歴史見直しと言う名目で特別法を制定
1995年11月30日 全斗煥検挙、逮捕12/3
1995年12月12日 クーデターと光州事件の時効停止の法律制定
1996年8月26日 全斗煥、盧泰愚初公判。全斗煥 死刑。盧泰愚 懲役22年6月。
1997年4月17日 刑確定。全斗煥 無期懲役+312億円支払。盧泰愚 懲役17年+372億円支払。
1997年11月21日 金泳三大統領はIMFへ救済資金として200億ドルを公式に要請した。
IMFが韓国経済に介入し財閥の透明性向上等を採用した。
※1985年10月金泳三来日 日本の閣僚は全斗煥への配慮から多くの人は面会しなかった。
2001年8月23日 韓国は正式にIMF体制を終了した。195億ドルを全て返済した。
(2)与野党の政権交代~金大中による「国民の政府」
1997年12月18日 金大中が大統領選挙に勝利
1998年2月25日 金大中の大統領就任式に金泳三、盧泰愚、全斗煥、崔圭夏という存命の
大統領経験者が全員参加した。日本から中曽根康弘、竹下昇等が参加した。
1998年10月 金大中大統領の日本訪問。天皇との懇談会
1998年10月8日 小渕総理と金大中大統領による
共同宣言「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」
・日本文化の韓国での解放 ・2002年日韓ワールドカップ共同開催
2000年6月13日 南北首脳会談(金大中、金正日)
2000年6月14日 首脳会談にて4つの課題提起
1.和解と統一 2.緊張緩和と平和定着 3.交互交流活性化 4.離散家族問題
2000年10月13日 金大中 ノーベル平和賞受賞
終章 新しい日韓関係の構築をめざして
1928年 キリスト伝道師の尹致浩が7人の孤児と共に暮らしはじめ、児童養護施設を設立した。その後、田内千鶴子(尹鶴子ユンハクジャ)さんと結婚した。
1950年朝鮮戦争勃発。尹致浩さんが500人を超える子供達の食糧調達にいくが、その後帰らず。田内千鶴子さんは夫の意志を継ぎ子供達を育てた。56歳で死亡したが、葬式は木浦駅前広場で行われ3万人の市民が参加した。
2023年10月13日
設立95年記念式典にて、尹錫悦大統領が参加した。日本の岸田首相かもメッセージが送られてた。日韓パートナーシップを共同宣言した金大中と小渕総理は、この養護施設を知っていた。金大中は地元木浦の施設であり熟知していた。小渕総理も首相在任中に本児童養護施設に梅の木20本を寄付している。この養護施設は日韓パートナーシップの象徴である。
映画「愛の黙示録」は日本文化解禁の第一作である。
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