夫 金大中とともに   李姫鎬 2009年

はじめに 私の人生、私の祈り

 韓国は日本帝国に山河を奪われた。そんな時代に生まれた李姫鎬さんが、日帝時代、開放と分断、独裁と民主、この様な対立する時代的背景の中でどの様に生きたかを教えてくれる一冊である。
 生まれは裕福な家庭に生まれた。不自由ない子供時代を過ごして、女性が教育を十分に受けられない時代であった。その中で留学を果たした青春時代、次に来る金大中との結婚後の長く険しい道のりである。朴正煕、全斗煥2人の独裁者による弾圧と迫害、死刑判決等を乗り越え、夫金大中は大統領に就任する。5年間、ファーストレディとして青瓦台で過ごす。波乱と紆余曲折の人生である。この様な本を読める事は、大変幸福な事である。1行1行噛み締めなくてはならない。

第1章 1922〜1962年

 激動の地、ふくらむ向学心
1922年9月21日、ソウル生まれ。父は全龍基、母は李順伊である。父は医者であった。両親共に両班の出身で、お米が食べれる程の豊かな家庭であった。
 1936年14歳の時、梨花高女子に入学した。1938年、日本は朝鮮に対して朝鮮語の使用を禁止した。この様な屈辱的な状況であったが、楽しい青春時代であった。級長に選ばれ寮生活は朝鮮全土から来た人達と方言コンテスト会場の様な楽しさであった。演劇が好きで、日本が嫌い。週末はショッピングを楽しんだ。1940年3月梨花高女子を卒業した。母は常に女性も勉強しなくてはいけないと、述べていた。母は1940年3月24日に亡くなった。姫鎬19歳であった。姫鎬が9歳の時に弟を亡くしていた。父は継母と結婚した。そして、家を出た。
 1942年、梨花専女に入学した。1940年、日本は名前を日本的に改名する事を強要した。1941年12月8日、日本はアメリカ真珠湾を攻撃し太平洋戦争が始まり植民地の若者が強制徴用、学徒兵、挺身隊として連行された。学校は全て日本語が強要された。1943年12月、梨花専女は閉鎖され、日本の皇国臣民を作る「女子青年錬成所指導員養成科」となった。1944年、礼山の女子青年錬成所に指導員として赴任した。この当時、農村の女性をみたが、実情の悲惨さに驚いた。1945年、日本の降伏により朝鮮は開放された。愛国歌を合唱できた喜びを感じている。妹の映鎬が結婚した。その後、京城師範学大学の教員養成所に3ヶ月間、通い教員免許を取得した。その後、文理大学受験を試みるが、試験会場でのデモ隊と騎馬兵の争う姿を見て受験をやめた。ソウル大学師範学校英文科に登録した。
 1945年9月、マッカーサーが仁川に上陸した。開放の喜びはアメリカによる信託統治へと変わり不安に包まれた。
 1946年9月、ソウル大学師範学校英文科に入学した。学徒護国団の師範学部副隊長になった。1949年、ソウル運動場で護国団結式には李承晩大統領、国務大臣、文教大臣がら列席した。大隊長不在時は、副隊長である姫鎬が号令をかけた。当時最も熱心であった事は、演劇だった。あだ名は、ダス(das)だった。男女共学の中で男尊女卑の意識との戦いだった。1948年12月、33人の大学生により勉強同志会が結成された。この活動により金大中との出会いに至る。
1948年8月15日、大韓民国樹立した。1950年、ソウル大学師範学部教育学科卒業した。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。戦争が始まり友人の自宅に避難したがら次には瑞山で過ごし釜山に行った。父は既に釜山で医者を行っておりひもじくはなかった。臨時政府の置かれた釜山は、活気にあふれていた。女子青年団を作った。
朝鮮では女性の地位は低かった。朝鮮を支配した外国はモンゴル、日本、アメリカであるが、常に不名誉な名称で蔑まされる女性が存在した。家父長制度の問題である。1952年、1953年に各々女性が司法試験に合格した。その1人は34歳の若さで死亡しており原因も曖昧な部分が残っている。女性の地位向上は李姫鎬にとって大きな課題であった。結婚を考えていた人がいたが、その人は結核になった。留学するか?看病するか?悩んだ末に留学を選んだ。
1953年7月27日、休戦協定は調印された。1954年8月15日留学の為、韓国を離れる。長い旅路の末、テネシー州のランバス大学の特別学生となった。英語コースを聴講しながら、社会学を専攻した。1955年夏、ウィスコンシン州のミルウォーキーの工場で電気コイルを巻くアルバイトをした。その他、論文作成でもお金を稼いだ。1956年、ナッシュビルのスカリット大学に移った。月に一度留学生が集まり韓国料理を楽しんだ。アメリカ留学中にであった人で記憶に残る人として、エレノア・ルーズレルトを挙げている。人権の大切さを主張したファーストレディで社会の弱者に焦点を当てた生き方をした人である。
 1958年37歳で韓国に帰国した。帰国後はYMCAにて働く事にした。社会活動と女性運動を同時にできるキリスト教団体であるYMCAでの総務の仕事を選択した。1959年、メキシコで開かれたYMCAの世界大会に参加した。アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ギリシャ、香港、日本のYMCAを見て回った。
 1960年大統領選挙があったが、不正がおおこうした。その後、李承晩はアメリカハワイへ亡命した。女性運動は朝鮮戦争の為に下火になっていたが、1960年になぅてから再度活気を取り戻した。女性団体協議会を発足させた。1962年金大中と結婚し、YMCA総務を辞任した。 
 日本が朝鮮にした事の事実は消えない。李姫鎬さんは日本帝国が朝鮮に強い力を持っている時に生まれ、学生時代を生きた。その後、日本からの解放はされたが、南北分断と外国勢力の介入、その結果、反日よりも反共となり現在でも続いている。1942年、太平洋戦争を起こした日本は植民地である朝鮮に対して、強制徴用・学徒兵・挺身隊として総動員令をかけ朝鮮人を困難な場面の先頭に置かせた。この中で金活欄さんに注目している。どの様な人物であるかは理解できない部分が多い。しかし、この様な悲しみを残している事は事実である。

第2章 1962〜1972

出会いと結婚、そして波乱万丈
・本の虫、金大中
1951年 金大中と李姫鎬は朝鮮戦争での疎開先である釜山で出会った。金大中は実業家であった。
1959年 夏の終わり、ソウル鍾路にて6年振りでの再会だった。金大中は政治の世界に入って苦労しており、李姫鎬はYMCAの世界大会に参加していた頃だった。
1961年、金大中は民主党のスポークスマンになり、その年の補欠選挙で当選したが、直後に起こったクーデターで再び失業者になった。この軍事政権により再度逮捕された。釈放後、2人はデートし、金大中は李姫鎬にプロポーズした。李姫鎬は留学前に病気の彼氏を置いてアメリカへ留学した事に良心の呵責を感じていた。その事もあり、苦難の多い金大中との結婚は悩む所であった。周囲の多くの人は反対した。しかし、
1962年5月10日、2人は結婚した。その10日後、金大中は反革命容疑で逮捕され、6月24日帰宅した。結婚して、金大中の家族と一緒に暮らすのであるが、死別した金大中の先妻である車鎔愛さんへの敬意を払っている。難しい年頃の2人の息子達、虎おばあさんとあだ名された金大中の母、お金がなく十分な治療をできず病気で亡くなった妹、これらの人達と家族になった。「じつに美しい家族だった」という表現に深い想いが込められている。
金大中は子供の教育を、母ではなく妻である李姫鎬に任せた。李姫鎬は金大中の2人の息子に決して甘やかす事はなかった。徐々に1つの家族になっていった。
 結婚しても李姫鎬は、梨花大学で講義をしながら、YMCAで働いた。
1963年11月12日、2人の間に子供が生まれた。弘傑(ホンゴル)である。李姫鎬が、42歳の時である。晩学、晩婚、高齢出産であった。また、出産の時は、側に誰もいない状態であり寂しさはひとしおであったと思われる。
・母として妻として
 1960年代は、金大中の妻ではなく李姫鎬として女性の位置向上の仕事ができた。梨花大学講師、TMCA総務、常任委員、等々である。同時、女性の地位は低くサービス業の女性の43%が家族の為に働いていた。特に長女が家族の為に酒場で働いていた。この様な状況を改善すべく仕事をしていた。
 母としては、子供が産まれてお祝いの言葉があり、夫が国会議員になり暮らし向きも改善された。奥様と呼ばれる様になった。金大中は政治に忙しく殆どいない状態であった。
・日韓国交正常化
朴正煕政権は経済成長の為のお金が必要であり、これを日韓国交正常化に求め、36年間の日本による韓国への搾取を6億ドルで決着してしまった。野党は反対するばかりで全く調整がなく、アメリカはベトナム派兵で朴正煕政権との距離を縮め、日米韓の連携強化は世界的な流れとなり金大中はより日本に対して譲歩しようと主張するが、一般の人には理解して貰えず家族までもが、苦しい想いをする事になった。
・愛する父
 1964年10月31日、父が亡くなった。75歳であった。金大中との結婚を多くの人が反対する中、ただ1人喜んでくれた父だった。その父が亡くなった。
・第七代総選挙、木浦選挙区は戦場だった
1967年5月大統領選挙があり朴正煕が当選した。6月には国会議員選挙があった。朴正煕は金泳三と金大中を絶対に当選させまいと大量の不正を展開した。特に金大中が立候補する木浦には朴正煕自信が与党候補の応援に駆けつけ、木浦に大学を作るとまでの展開をした。その結果、逆に金大中への関心と存在感を高める結果となった。金大中自身の選挙は当選した。
・40代の大統領候補、金大中
1970年、人民党の大統領候補選挙が実施された。40代旗手論を掲げた金泳三院内総務に加え、金大中、李哲鐘の3人での選挙となった。朴正煕は禁止されていた大統領3選を憲法改正をしてでも実現する野望を持ち、これを阻止する大統領選挙であった。3人が立候補する中で実際された第一次選挙では金泳三が一位、金大中が二位だったが、過半数を制する人がいなかったので、上位2名による決算投票が行われた。その結果、金大中が勝利した。李姫鎬は、その勝利の1つの理由として、金大中が1人で全国を歩き地方の議員の心を動かした事であると述べている。
・開票で負けた1971年大統領選挙
金大中の主張は、打倒独裁と南北の話し合いであった。南北の話し合いは国民には理解しがたい内容だった。知的ゾーンには理解されても決して大衆受けする内容ではない。しかし、本当に必要であるとの認識の中で自分の信念を貫いている。もう一つは打倒独裁であり多くの国民の共感を得られた。与党からの嫌がらせは激しく、自宅の爆発事件、選挙対策委員長の自宅の放火があり、盗聴や家族までの尾行が当たりまての様に行われた。この様な中で、行われた1971年4月18日の奨忠檀公園での遊説は100万人以上の観衆が集まった。対して朴正煕への観衆は、3分の1程度であった。しかし、選挙結果は朴正煕が634万票、金大中が539万票であり差は95万票であった。不正に次ぐ不正をした結果であり金大中への支持の高さを感じさせる。
・2度目と死線、交通事故
1971年5月、国会議員選挙にて候補者の応援に全国を回った。全羅南道からソウルに飛行機で、向かおうと光州飛行場に向かう途中、交通事故にあった。トラックの持ち主は与党関係者であり、政治的な陰謀が予想される事故でこれにより金大中は足が不自由になった。新民党は改憲阻止の65議席を上回る89議席を確保した。党首選挙にでたが、敗北した。社会は選挙が終わってからも司法波動、偽装スパイ事件、学生運動等、落ち着かなかった。10月に衛戍令が出され大学構内に武装軍隊が駐留した。長男弘一が逮捕された。1週間後傷だらけで帰って来た。金大中だけでなく家族にも危険が迫って来た。11月治療の為に東京の慶應病院に入院した。12月6日、非常事態宣言が発生され朴正煕の長期執権が確実になった。12月16日、金大中は帰国した。全ての政治活動が徹底的に取り締まられた。金大中の母が1972年5月10日他界した。金大中は治療の為、1972年10月11日、日本に向かった。
・東橋洞の表札、金大中—李姫鎬
東橋洞に引越したのは1963年4月初めであった。40年近く住んだ。表札には、金大中と李姫鎬の2人の名前を掲げた。これは夫婦は同等である事の模範を示す事であると言う金大中の妻への敬意の表れである。

第3章 1972〜1980 維新の暗躍に囚われて

•第二のクーデター
1972年朴正煕は第8代大統領に就任した。維新憲法に従い統一国民会議での選出である。第7代大統領選挙で金大中との一騎打ちで事実上敗北した事を知っての対応であり、これにより朴正煕は終身の大統領となった。独裁的な環境が整えられ、所得は上がったが、決して幸福な状態だはなかった。金大中と関係のある人達は情報部に捉えられ拷問をかけられる。70歳の大企業会長も捉えられ、裸にされ棒で殴られると言う事が当たり前の時代であった。金大中はアメリカ、日本で政治的亡命生活をしていた。金大中家族にとって1972年の冬は長く寒さに凍えた厳しい時だった。
・「拉致」から生還する
1973年8月8日、金大中拉致の一報が李姫鎬に届く。同時に日本の報道機関がどっと押し寄せた。誰かはわからないが、電話で夫の金大中が拉致されたとの連絡があった。2年前の交通事故の事が思い出され強い不安と焦燥感に襲われた。徐々に何が起こったのかがわかって来たが、情報部の仕業であると確信していた。13日になって金大中が戻ってきた。口元は裂け手首にあざがあり憔悴しきったいた。朴正煕政権は金大中の自作自演との噂を撒き散らし、天が怖くないのか?と思った。次男は軍隊で将校として勤務していたが、一報を聞いて、軍の規則を破ってでも帰宅し父に会いに来た。この事件で韓国は日本の主権侵害を行ったが、次に生じる朴正煕狙撃事件で日本側が謝罪する事になり、両国政府間で、うやむやになっていった。
・義の人、鄭一亨と李兌栄
金大中拉致は、自作自演と言うデマが政府から流布された。また、野党も金大中は海外で贅沢な生活をした、金日成提案の連邦制を支持した等々のデマを進んで流し、これが本当に苦しかった。この中で、国会議員である鄭一亨さんと奥様の李兌栄さんは勇気のある人だった。国会で拉致事件が個人でできる内容でなく多くの国民が情報部の仕業であると思っていると発言した。この発言は14回も中断されても行われ、その後、与党議員から暴行を受け腸から出血し、それが原因でガンになり1982年4月に死亡した。東亜日報が言論の自由闘争を繰り広げ、金大中のインタビューを掲載し無事を新聞に載せた。政府から様々な嫌がらせを受け、113人が同時に解雇されると言う圧力もあった。キリスト教会では木曜祈祷会が開催されていた。逮捕者の家族が会話できる唯一の場となっていた。1974年4月3日、第2次人革党再建委員会をでっちあげ、21人を逮捕して拷問にかけ死刑となった8人は死刑宣告の18時間後に執行された。木曜祈祷会で司法史上最悪の対応に泣き叫んだ。長男の結婚は朴正煕狙撃による陸英修女子死亡と同じ時であった。金大中の息子という事で結婚してくれる女性がいるか心配したが、弟の友人の妹さんが相手であり、お嫁さんのお父さんは上海臨時政府で金九主席の護衛隊長を勤めた人で、副社長として勤めていた会社を退職して、この結婚を受け入れてくれた。
・暗号名は「韓服」 3・1民主救国宣言
1975年2月、維新憲法と大統領信任を関連づけた国民投票が実施された。賛成率73.1%で可決されたが、公務員が総動員されるなど不正による結果である。緊急措置7号、9号が宣布され特に9号は政府に反対した場合、令状無しに逮捕でき死刑にもできる悪法中の悪法だった。4月30日、北ベトナムによるサイゴン陥落があった。これにより朴正煕政権は北朝鮮は戦争を仕掛けてくると言い恐怖の雰囲気を作った。金日成も同様の手口で国内を煽っており、相互依存的な敵対的共存と言われた。この9号に対してソウル明洞のキリスト教会にて「3・1民主救国宣言文」が李愚貞教授により宣言された。緊急措置撤廃、議会政治復活、司法の独立、経済立国再検討、南北統一に向けた民主力量向上である。この宣言後、李姫鎬も金大中も南山の中央情報部に連行され断食のハンストを行い眠る事は許されない中、祈り続けた。金大中は懲役10年、資格停止10年となった。こんな中、孫が生まれジヨンと名付けた。鄭一亨議員の最終陳述は、抗日、反共、反独裁に一生をかけていた。比べて朴正煕は日本軍の手先になり、反乱に加担し独裁者になったと述べた。
・「死んだ民主主義を弔います」
3・1民主救国宣言に対して逮捕された人に対しての初公判が1975年5月4日実施された。元大統領夫人、元大統領候補夫人が並んでの後半となり海外の記者が多く参加した。口には黒色のテープを十字架の形にして被告人の家族は参加した。第2回目の公判では苦難と平和を象徴する紫のV型ショールを地下鉄、バスなどいつでもどこでも編んだ。その時、民、主、回、復と言いながらパフォーマンスした。ある時は、被告人の家族は紫の韓服を着て一斉に姿を現した。紫は平和の意味と国花であるムクゲの色でもあった。この様な形で独裁政権に対して抵抗し、民主闘士決死隊となっていった。特に第7回公判では、被告人である元大統領、元大統領候補、等々が自分の主張をし、裁判部と攻防した。金大中も自説を述べ、多くの人に共感を与える事ができた。「真の大統領がいる」と言う発言が金大中に対してあった。ここでは、政治の世界だけではなく主要在野の人達との交流ができた。3・1逮捕者の家族は1970年代の韓国民主化運動の中心となっていった。そして、1985年、民主化実践家族運動協議会へと発展し、1980年代の民主化闘争の一翼を担う家族運動の母体となっていった。1976年10月24日、コリアゲート事件が始まった。アメリカに亡命した韓国情報部の元部長が明らかになった内容として、朴正煕は金大中に対して深い劣等感に基づく憎しみであるとわかった。金大中拉致事件は、この様な背景の中で行われた。
・晋州刑務所
1977年4月14日、金大中は晋州刑務所に移送された。暖房は全くない寒さの限界の中での獄中生活だった。宗教を中心に文学、哲学などの本を読んだ。多くの支援者が、金大中を訪問した。李姫鎬も家で暖房を付けなかった。金大中が牢獄で寒い中いる事を想うと自分が暖房を付ける気持ちになれなかったのである。
1977年12月19日、ソウル大学病院に移送された。これは人道的な配慮ではなく弾圧の延長だった。他の3・1民主関連の人は全員釈放された。この病院では監獄の延長で窓もなく、刑務所よりも環境が悪い所だった。24時間、警察の監視の中であった。こんな中でもトイレットペーパーの芯を用いた交換日記ができ、貴重な情報を金大中に届ける事ができた。
1978年7月6日、朴正煕は第9代大統領になった。12月17日、金大中を病院から解放した。真夜中1時55分に病院を、出て2時5分自宅に戻った。2年9ヶ月の監獄生活だった。
・釜山、馬山戦争
1978年12月12日、国会議員選挙で共和が68人、新民党が81人で野党の勝利だった。不正選挙の中でも朴正煕政権が負けたのである。1979年3月1日、民主主義と民族統一の為の国民連合を結成した。この連合の主張は、①非常戒厳令解除②国軍を政権安保に動員しない事③維新憲法改憲である。これにより金大中は再び5月31日から12月8日まで軟禁された。新民党は内部での派閥争いが絶えなかったが、金大中は金泳三がリーダーにふさわしいと主張した。金泳三ニューヨークタイムスに韓国の現状を述べた。これにより金泳三から議員職を剥奪した。これにより釜山で10月16日、17日に釜山でデモが起こった。デモが少なかった釜山大学でデモが起こった。①維新撤廃②言論の自由③金泳三除名撤廃の3つを掲げた。この運動は市民も巻き込み激しい市街戦となった。政府は釜山に非常戒厳令を宣布し空輸部隊を緊急投入した。しかし、逆にデモは馬山と昌原にまで拡大した。朴正煕大統領は工場地帯の労働者が立ち上がる事を恐れ、馬山と昌原に衛戍令を宣布した。1563人が連合され89人が裁判にかけられた20人が実行判決を受けた。
・朴大統領の非業の死
1979年10月27日、李姫鎬はアメリカからの電話で朴正煕暗殺の一報を聞いた。釜山、馬山抗争の件で朴正煕と車智澈から叱責を受け金載圭中央情報部部長が2人を射殺した。金大中も李姫鎬も共に朴正煕射殺を喜ばなかった。民主主義を求める彼らにとって暗殺はすべきではなくあくまで対話からより良い状態を作る事が大切だからである。金大中は朴正煕との面談を希望していたが、叶わなかった。11月6日、朴正煕暗殺の全貌が全斗煥から説明された。韓国の軍隊関係者は金大中は容共であると主張していて軟禁は継続されていた。12月6日、崔圭夏が10代大統領に就任した。緊急措置第9条は解除された。4年6ヶ月振りになくなり、金大中の軟禁は226日振りに解かれた。金大中は「夜明けの光が少し見えて来た」と述べた。

第4章 1980〜1985短い春、長い冬

・奪われた「ソウルの春」
1979年12日12日、ソウルで銃声があった。李姫鎬も聞いた。翌日の新聞で戒厳司令官を合同捜査本部が逮捕したとの発表があった。
1980年1月末、全斗煥から金大中に会いたいとの連絡があり、向かった所、若い担当者が来て、軍に協力すれば復権させてあげるという話であった。金大中は当然断った。
1980年2月29日、政府は民主化運動687人を赦免復権した。金大中は久しぶりに実名で活動ができる様になった。
1980年4月14日、全斗煥が中央情報部部長代理に就任した。これで、全斗煥はどんな情報でも把握できる強大な情報能力と領収書も無しに膨大な予算を使う事ができる様になった。復権した人達はデモ等の活動を再開した。全斗煥退陣を求めるなどソウルでも活発になっていった。しかし、ソウル駅回軍を契機に学生達は大学に戻っていった。金大中は行動声明をマイルドな表現にし、政府から目立つ事を避けた。
1980年5月16日、金栄三と金大中は戒厳令解除、政府主導の改憲反対等、6項目を共同声明として発表した。
1980年5月18日、非常戒厳令を全国に拡大した。これにより、短かったソウルの春は幕を下ろした。光州民主化運動が起こる。
・真っ赤な嘘「金大中内乱陰謀」
1980年5月17日、金大中は捉えられた。長男、次男含め関係者は26人が捕えられた。
1980年5月22日、戒厳令司令部は金大中が、国民を扇動して光州で民衆を蜂起させ国家転覆を図ったと発表した。その後、数回に渡り取り調べを受け7月4日、金大中内乱陰謀事件を発表した。何度も懐柔を試みたが全て失敗であった。
海外の記者は光州の状況を世界に伝えた。
・「南漢山城」陸軍刑務所
1980年8月27日、全斗煥は第11代大統領になった。9月初め逃げ回っていた次男弘業が中央情報部に捕まった。逃げているより拘置所の方が安全であった。9月8日ソウル拘置所で長男弘一と嫁にあった。嫁が金大中の自宅に来れない様にしていた。長男家族は地獄の苦しみを経験した。長男弘一への拷問は熾烈を極めた。9月5日、次男弘業が帰宅した。やっと自宅に活気が戻った。
1980年9月11日、一審で死刑が求刑された。9月13日、金大中の最終陳述であった。傍聴者が記憶を辿って書き外国のマスコミと人権団体に伝え世界に発信され、その後、韓国に伝わった。「神が我々全てに朴正煕大統領の死の意味を悟らさせて頂きます様にと言うキリスト教の枢機卿の言葉を述べ、遠からず民主主義は回復するでしょう。その時の為に死んでいった私の為にも他の人の為にもこの地に再び政治的な報復が起こらない事を祈ります。」これが、金大中の死刑に向けての最終陳述の主な内容である。傍聴人達は「勝利を我らに」を歌い「金大中万歳」を叫んだ。この時、金大中は家族がいない事に強い寂しさを感じたと後日述べている。金大中死刑のニュースは世界を駆け巡りアメリカカーター大統領に伝わり世界中から強い抗議があった。
・「金大中を助けて」
1980年10月24日発公判、11月3日判決公判となり一審通り死刑が求刑された。国選弁護士は被告人が拒否するのに無視して判決の進行に手を貸した。
1980年11月4日、アメリカ大統領選挙でカーターはレーガンに敗れた。カーターは金大中への支援を表明していた為、金大中と家族は悲嘆した。全斗煥政権はレーガン政府へ金大中の悪い情報を流したが、レーガン政権は「金大中を絶対に殺してはならない」と名言した。公判を1週間後に控えた1月16日、家族全員を連れて、南漢山城へ面会にいった。冷たいコンクリートに家族全員が跪き涙を流しながら神に祈りを捧げた。その姿を見た金大中はこの家族の絆がなけれは20年以上続く拷問、試練に耐えられなかったと述べている。
1980年1月23日、午前中死刑が求刑された。午後に臨時国会が開かれ無期懲役に減刑された。死刑から救われたのは4回目で、これにより子供達、兄弟達も信仰に目覚めた。
1982年4月25日、父親の様な存在である鄭一亨さんが78歳で亡くなった。金大中は無期懲役から懲役20年に減刑されて服役中だった。鄭一亨さんは金大中の減刑に身を挺して尽力された方であった。多くの人達が金大中減刑に力を注いだ。アメリカ政府、韓国キリスト教の宣教師、ヨーロッパ首脳達である。
・全斗煥大統領に面会する
1981年1月31日、金大中は南漢山城の陸軍刑務所から忠清道清州の刑務所へ移動となった。一般の刑務所で暖房はなかった。しかし、李姫鎬が差し入れした電気ストーブを使える様にしてくれた。
1981年2月から徐々に改善された。次男弘業さんが外出可能となり、李姫鎬は日曜学校に通える様になった。
1981年2月25日、全斗煥が大統領に就任したが、更に緩和されていった。5月10日には長男弘一、義弟が特別赦免で釈放された。
1982年2月初め全斗煥に面談した。会話としては、釈放は無理だが、改善していくと言う内容だった。結果として、懲役20年に減刑された。
・苦難の中の受験生
三男弘傑が小学校の時、金大中拉致事件が発生した。中学生で3・1民主救国宣言文事件、高校の時、父は軍人に連れられて行った。この様な環境で育った弘傑は当初より無口であったが、更に無口になっていった。学校から帰って何時間も眠る姿に李姫鎬は哀れで涙が止まらなかった。大学は高麗大学に合格した。某所から合格を取り消す様に圧力があったが、高麗大学の総長がこれを拒否した。金大中と弘傑くんは獄中読書交換日記を、1979年7月16日から9月4日まで続いた。弘傑くんは高い集中力があった。自動車、兵器、スポーツ、文学、音楽に没頭した。父に似て読書家だった。家族と金大中の手紙は1980年11月21日から始まり1982年12月アメリカに亡命するまでの2年余り続いた。
・獄中で出会った「第3の波」
獄中で金大中は多くの本を読んだ。死刑から無期懲役に変わって、宗教でなく歴史や神学や経済等の本を読んだ。1日10時間余り読んだ。この中で最も影響を与えた本は第3の波であり、第1の波は農業革命、第2は産業革命、第3の波は情報革命であり情報化社会が来る事を予告した。この本を読んだ金大中が感銘し、その後の韓国の情報化、IT化を強力に推進した。その後、第3の波の著者であるアルビン・トフラーと金大中は懇意になった。
政府からアメリカに治療目的で行く事が提案された。署名が必要であるとの事であるが、非公表の約束が反故にされただけでなく、金大中がアメリカへ行く事を懇願したとの嘘を署名と共に流布された。また、渡航に伴う費用も政府から貰ったと言う嘘を流布さらたが、実際は親戚を通じてのなんとか調達したお金だった。アメリカに着くと多くの人が飛行場に出迎え、李姫鎬にとって感謝と感激で涙が止まらなかった。これまでの苦労が栄光に感じられた。
・死刑囚から亡命者へ
1983年1月8日、亡命先のアメリカでのアパートに引越した。バージニア州アレクサンドリアであった。金大中は全米各地から講演の依頼があり飛び回った。2月には在米人権問題研究所を設立した。また、5月にはエモリー大学から名誉博士の称号を得た。そこでカーター元大統領に会いキング牧師のお墓を訪れ黙祷した。
1983年5月、金泳三が命をかけたハンストに入った。この活動がきっかけとなり、野党と在野勢力を結集される事になり、新民党が発足した。
1983年11月10日、ABC放送の看板番組である「ナイトライン」に出演し与党色の強いアメリカ人との討論を実施した。この議論の中で韓国の人権の実情を説明する事ができた。フィリピンのアキノ氏が空港到着時に射殺された事件が生々しい頃でもあり、与党系との議論では勝利と言える内容だった。
生活費・活動費を得る為、書道展を開いた。李姫鎬が好んで書いた言葉は「敬天愛人」「寛仁厚徳」、金大中は「事人如天」「人乃天」「実事求是」である。長男は生活の為に韓国で焼肉屋を経営した。
1983年9月からは、キッシンジャーのハーバード大学にて客員研究員としてボストンで活動を始めた。キッシンジャーとの会話は有意義であった。
金大中の股関節の治療は捗らなかった。また、李姫鎬自身もリウマチの再発、口内の渇き、舌の裂け等で食事が摂れない等の体調不良に苦しめられた。この様な状況であったが、金大中は韓国に帰って民主化運動を再開する事を決意した。アキノ氏の件もあり多くの人が心配する中、1985年2月8日、帰国した。金大中を殺させない様に多くの人が飛行機に同乗し見守った。しかし、空港に到着後、私服警官が暴力を振るって2人を引き離しカーテンで覆われたマイクロバスに強制的に乗せられていく事となった。2年3ヶ月振りの帰国は、この様になった。2万人以上の人が金大中を歓迎しに空港に来たが、金大中を見る事は出来なかった。
・ハッピーエンドの ロミオとジュリエット
次男弘業さんは、シン・ソンリョンさんと結婚した。シン・ソンリョンさんのお父さんは政府の高官で青瓦台の司成秘書官であった。反体制派の金大中の次男との交際はロミオとジュリエットである。
1980年2月、親友の新居お祝いで出会った大学の同窓生である。次男が指名手配された時に電話すると心配して隠れ場所を捜してくれた。1982年12月に軟禁が解かれ再開した。アメリカに家族と共に来たが、毎晩電話をかけ手紙が来ていた。旅券の手配をしてソンリョンは1983年12月にアメリカに来た。2人は1984年3月にマリーランドで結婚した。次男弘業34歳、ソンリョン30歳だった。結婚式の一週間後、ソンリョンのお父さんがアメリカに来た。全斗煥にありのままを報告した所、お祝いに行ってきてあげてやりなさいとの事だった。ソンリョンは弘業さん以外とは生涯結婚しないと心に決めていたと言っていた。メリルリンチで人事担当取締役に就任する程のキャリアウーマンである。

第5章 1985〜1997「6月民主化抗争」がくれた贈物

・金大中は「自宅軟禁中」
1985年3月6日、全斗煥大統領就任4年に合わせて金大中の政治活動が、民推協共同議長としてのみ許可された。この頃は、金大中は自宅に軟禁、李姫鎬は病気で家に閉じ込められた。軟禁は時に解禁される事があり金大中を温泉に連れて行った。家の修繕を行なった。9月頃から李姫鎬の気力は回復し始めた。家の改善で金大中の書斎ができ飛び上がって喜んだ。
19852月8日から1987年6月24日までの28月の間、54回にわたって軟禁であった。1日、2日という短いものから78日という長期まであり、特に3・1節、4・19義挙、5・18抗争などの前では必ず軟禁であった。全斗煥政権の軟禁の狙いは金大中を政治的に立ち枯れされる事である。時には3000人余りの戦闘警察が、自宅周辺を包囲した。総選挙1周年を記念して1千万人改憲署名活動を開始したが、民衆と警察の衝突となり改憲大会は頓挫してしまった。アメリカシュルツ国務長官は「大統領直接選挙制だけが、民主主義とは思わない」との発言で全斗煥は権力維持が可能な内閣制改憲へと意志を固めた様に見えた。1986年秋には戒厳令が宣布されるかもしれないと言う噂が流れ国会が解散される可能性があった。同時に金大中を軍が殺そうとしているとの事で、金大中に政界を引退させたい狙いがあった。これらは1986年10月28日、全国28の大学での学生による立てこもり事件を背景にしている。1274人もの逮捕者を出した事件である。金大中が大統領になる事を政府は恐れていた。金大中は、「直接選挙制を受けいれるなら大統領選挙には出馬しない」と発表した。金泳三は、「金大中が復権すれば、私は次期大統領候補を譲る」と発言した。シーツに大きく「金大中軟禁中」と書いた横断幕を屋根に取り付け、外国記者にわかる様にした。その結果、AP通信を通じて世界に発信された。外部との連絡は、タバコの箱、芯を抜いたボールペン等を通じて交換しあった。家庭内でも全て盗聴さらている前提で暮らし、重要な情報は筆談で行った。金大中は自宅で花を大切に育てた。花も丹精込めて育てれば、美しさが長持ちすると言って大切にしていた。
・「1980年代の子どもたち」と権仁淑
1980年代の若者達は、それまでとは全く異なった価値観を持っていた。その原点は5・18光州事件である。全斗煥政権とそれを承認したアメリカに対する嫌悪感である。80年代はアメリカの多くの施設が襲撃された。釜山、大邱、ソウルである。アメリカ文化センターが襲撃された。60年代に生まれ70年代に、維新教育を受け、80年代に李泳禧の「転換時代の論理」を読み冷戦イデオロギーの虚構を知り、彼等の「思想の恩師」となった。白楽晴の「創造と批評」金彦鎬のハンギル社が、若者は大きな影響を与えた。マスコミを信じる旧世代、マスコミに不信感を持つ80年代世代に大きな差が生じた。この現象は自殺という表現たなった光州事件に対して、自らの焼身自殺という過激な方法で、社会への義憤を表したのである。
の世代の代表的な人物として権仁淑さんを挙げなくてはならない。5・3仁川事態の首謀者として警察にマークされ捕まった。警察は性的な拷問も行い女性の羞恥心を悪用した。権仁淑は人権弁護士と共に戦い、拷問捜査官を法廷に立たせた。非力な女性が世の中の悪と如何に戦うかを真正面から立ち向かい社会的義憤を組織化できる事を示した。権仁淑は「大韓民国は軍隊だ」という本を書いた。軍事文化と結合した家父長文化こそが乗り越えるべき障害である。
・「拷問のない世界で暮らしたい」
1987年6月29日朝、盧泰愚大統領候補は大統領直接選挙への改憲・大統領選挙法改正・金大中らの赦免復権・時局関連時犯の釈放などの8項目を発表した。これは拷問死への抗議への結果である。朴鍾哲さん、李韓烈さんの死が家族を動かし、社会を動かした結果である。また、同期してアメリカ議会が動きレーガン親書により戒厳令が実行されない様に周囲が動いたからである。
・闘士になった母たち
1980年代闘士になったのは、若く亡くなった若者達の母親達だった。
特に有名なのが、李韓烈さんの母親である裵恩心さんである。彼女たちが民家協という組織を作り活動した。彼女たちは、李韓烈さんの霊柩車が光州に向かって発すると市庁の玄関の扉を蹴破って中に入り全斗煥大統領の写真を引き摺り落とし潰した。この様に最も熱烈な闘士が被害者の母達となった。1985年になると逮捕者が大幅に増え自殺投身自殺する人が増えた。これらへの対応も被害者の父母が中心となった。朴鍾哲さんの父・李韓烈さんの母がこの活動を中心的に実施した。これらの活動は、金大中が大統領の時に「民主化運動関連者名誉回復及び補償法」「疑惑死真相究明に関する特別法」の成立に尽力し国会を通過させた。
・「6月民主化抗争」の勝利を逃す
1987年大統領選挙は盧泰愚、金泳三、金大中、他2名が立候補した。野党を一本化すれば独裁政権の終了を見る事ができたが、金大中と金泳三は調整がつかず、結局盧泰愚が勝利した。これは国民から見るとせっかくのチャンスを自分が大統領になりたいとの強い想いが原因であり失望も大きかった。
・16年ぶりの国会議事堂
金大中が、率いる党は野党第一党になり、自身も国会議員に16年振りに返り咲いた。自宅は軟禁状態からひっきりなしにお客が訪れる家になった。1988年6月29日、野党第一党の党首として代表演説を行い光州民主化運動聴聞会等が開催さらるに至った。盧武鉉が新しいスターといて却下を浴び始めた。全斗煥は、1988年11月23日事実上島流しになった。12月31日国会の証言題に立ち、自らの統治行為としての正当性を釈明するばかりであった。
・家庭の民主化、家庭法改正
1989年12月19日、家族法が改正された。それまでは女性は法律上は男性に従属する存在であった。離婚時の財産分与、親権規定を改正し女性も親権を得る事がらできる様になった。親からの財産も男性だけでなく女性にも受ける権利が与えられた。
・3党合意、野合の道
1990年1月22日、盧泰愚・金泳三・金鍾泌が三党合同で新しい党を作ると宣言した。金大中を仲間外れにして、野党第一党の影響を小さくする内容であった。金大中の主張の一つに地方自治がある。これまでは中央政府が地方の首長を任命する形式を取っていた。しかし、これには国民の意思は反映されなかった。過激化する野党に国民が反発したからである。
1992年5月10日2人は結婚30周年を迎えた。結婚10日目に金大中は投獄され、10年目には姑が亡くなり、20年目には清州刑務所に囚われの身になった。様々な波瀾万丈な出来事があった日々であるが、30周年の結婚記念日もいつもと同じ各々の信じる教会に行った。3人の嫁にはこの様な風あたりの強い家に嫁いでくれて大変ありがたく感謝している。
・1992年大統領選挙、政界引退
1992年大統領選挙は金泳三・金大中・鄭周永の3人の選挙となり金泳三が勝利した。三党の候補がテレビで公開討論を行い国民の前に表明した。この結果を受け金大中は政界引退を決断した。
・壊れたベルリンの壁の前で
1993年1月26日、金大中らはイギリスのケンブリッジに移動した。ホーキン博士が住んでいる家の隣であった。大学院のクレアホール研究室なら出勤した。日本の留学生との議論、分断国会の統一などの議論があった。久々に知的な日々であった。1993年7月4日韓国に帰国した。159日振りの帰国であったが、北朝鮮の核拡散防止条例からの脱退、アメリカからの強行姿勢の為、朝鮮半島に戦争の危機が高まっており政界復帰する為の帰国であった。
・政界復帰に反対する
フランスのドゴール、アメリカのニクソンも一旦は政界を引退するが、その後、復帰して大統領になっている。金大中は新党である国民会議を発足して大統領選挙に向けて、金鍾泌と協力して選挙戦を戦う事とした。
・夢は叶う
1997年大統領選挙にて金大中は李会昌、李仁済を破り大統領選挙に勝利した。

第6章 1998〜2008 青瓦台での5年

・空っぽの金庫からの出発
1997年12月19日、金大中は大統領に就任した。これまで支えてくださった方々への感謝から始めたが、最大の恩人である鄭一享さんは既に亡くなり、存命であった奥様の李兌栄さんは認知症で金大中、李姫鎬さんを認識できなかった。本当に悲しい出来事であった。喜んで欲しかった。また、この時期はIMF経済危機であり様々な原価低減活動が実施された。その中でも「祖国のために」自身の金を差し出す姿が感動的であった。間の十字架を差し出すキリスト教の枢機卿、金メダルを差し出すメダリストである。
・貧しい第2付属室
第2付属室とは大統領夫人用の組織の事で、朴正煕や全斗煥の夫人は奉仕活動を行いこども会館や心臓病財団を設立した。また、大統領の夫人の最大の仕事は大統領が国政に専念する事ができる様に影で支える事である。李姫鎬さんは児童と女性の為の活動に決めた。経済危機で食べられない子供が多かったからである。第2附属室の活動は欠食児童・孤児・少年院・障害者・北朝鮮の子供へと向かっていった。
・「国民の政府」、女性が躍進
金大中が大統領である際の政府は「国民の政府」と呼んだ。この「国民の政府」の5年間、青瓦台では女性の活躍は大幅に拡大した。金泳三政権ではたった1人の女性秘書官であった。これに対して金大中政権では、10人の女性が秘書官として活躍した。これだけでなく女性の抜擢は軍幹部、警察総警にまで及んだ。
・服にまつわる話
韓服の裾は長い方が美しい。靴を隠すと美しいとの事である。李姫鎬さんが、服を買うのは南出門市場である。とても安い事で有名な市場である。政府高官の夫人達は、大統領夫人よりも目立たない様に予め青瓦台に連絡して大統領夫人の着る服を確認してから自分の服を決める習慣があった。李姫鎬さんはこの風習を辞めた。韓服を控えた所、韓服業者から苦情があった。最後は外出を控えた事である。
・6.15、南北の感動の出会い
2000年6月13日、平壌にて南北首脳会談があった。
金正日は噂では「忍耐にかけ、神経質」という評判であったが、会って見ると全く異なった印象であった。他への配慮に優れ、国際情勢に優れた人物であった。この南北首脳会談はほぼライブで放送され、共同宣言文への首脳同士の署名をする事ができた。
・ノーベル平和賞を受賞する
2000年10月13日、金大中はノーベル平和賞を受賞した。長年の民主化運動への貢献と南北首脳会談による平和の推進に対して評価された。しかし、韓国国内では金大中のノーベル平和賞受賞に反対する勢力が存在しノーベル賞事務局に逆ロビー活動をしていると知った。何故この様な活動をするのか?全く理解できない。
・「愛の友達」と「女性財団」
1998年8月、食べられない子供達の為に「愛の友達」を発足した。アメリカでも「愛国母親の会」が生まれた。これらの子供達への奉仕活動が軌道に乗ったので、女性問題に取り組み、「韓国女性財団」を作った。また「愛のおやつ分かち合い」を始めた。飛行機でのおやつは多くが排気処分になっている。これらの食べ物を食べられない子供達に届ける、この様な活動を通じて社会への貢献を実施している。
・チタンの脚、アダムキングとのいきさつ
アダムキングは生まれつき障害があり歩く事が困難である。義足を付けて生活している。アダムキングは韓国に障害を持って生まれ、韓国内では養父母が現れず、アメリカの養父母であるチャールズとドナは自分達の子供だけでなく世界中から障害を持った子供達を自分の子供と同じ様に育てている。そして、自立して生きる事ができる様に育てる事を目指してる。
・少年院を抱きしめる
少年院は厚生する事が本来の目的であり韓国では特性化学校として、少年院にいる間で英語やコンピュータを学ぶ事ができる様になっている。ビルゲイツも参加している世界的なプロジェクトに韓国は積極的に推奨し、李姫鎬さんが応援し、ヤン君との交流があった。
・エレノアからローラまで
李姫鎬さんは多くのアメリカ大統領夫人に会っていた。ルーズベルト、ニクソン、カーター、レーガン、クリントン、ブュッシュである。この中でもクリントン夫人であるハラリーさんに共通点を見出していたようである。
・「主よ、私達が奢っていたのでしょうか?」
次男、三男が逮捕された。金大中自身も何度も収監されているが、無実であり、自身の心にはやましさはない。しかし、3人中2人が逮捕されるとは異常である。夫が収監されるよりも苦しかったと李姫鎬さんが述べている。
・東橋洞に帰って
2002年12月19日、盧武鉉が大統領選挙で勝利した。民自党の勝利であり自分毎の様に喜んだ。
2002年2月23日、青瓦台の最後の日となった。この後、自宅のある東橋洞に戻った。
2004年1月29日、「金大中内乱陰謀事件」無罪判決下る。
3人の孫娘に囲まれ幸せなひいじいさん、ひいばあさんになって潤いのある日々を送っている。87歳になり、先輩達の殆どがこの世を去った。友人達の数人は残っているが、殆どが病気に罹っている。今後、どれだけ健康でいられるかは、わからない。長く険しい道のりだったが、夫婦で一体となり乗り越えてこられた。韓国が差別なく強い物が弱い物に配慮し、抱きしめてやれる温かい社会になる事を願ってこの本を終える。
・訳者あとがき
黒い十字架で口を塞いだ写真は、民主主義が死んだ事を示す大変強いメッセージであり、李姫鎬さんらしいと言える。2009年8月18日、金大中が永眠された。その棺に李姫鎬さんの手紙をしたためお櫃に納めた。

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