韓国現代史  木村 幹    2008年8月

序章 それぞれの「暑い夏」

金大中、金泳三、尹潽善、李承晩、朴正𤋮の5人の韓国大統領経験者の1945年8月15日での対応を生まれから紹介しながら精神的な背景まで含め説明している。
1️⃣金大中
1924年1月6日生まれ。木浦から、さらに遠く離れた荷衣島(ハイド)で次男として誕生。家庭は島の有力者であった。簡易普通学校、木浦商業学校を経て日本人か経営する開運会社で働いている際に終戦を迎えた。聞いた瞬間「万歳」と叫んだ。徴兵からの解放の認識。
2️⃣金泳三
1928年12月20日生まれ。韓国で2番目に大きい巨済島(コジェド)
の有数の資産家の家庭。簡易普通学校、長木普通学校、統営中学を経て、停学中に終戦を迎えた。停学からの解放の認識。
3️⃣尹潽善(ユンボソン)
1897年8月26日生まれ。京城にて育つ。朝鮮半島有数の資産家。父は開花派の流れを組む軍人でありながら、日本統治化でも資産を維持した新日派の一族。校洞普通学校、京城日の出小学校、日本の正則予備学校を経て、上海での大韓民国臨時政府の設立、運営に参加。その後、イギリス留学(エジンバラ大学)を終え、ソウルに戻り有閑無為な生活。父が1944年亡くなり、1945年8月15日では48歳で一族の長となっていた。
4️⃣李承晩(イスンマン)
終戦時に70歳。日本の降伏をワシントンにて聞いた。戦争終了後の大韓民国臨時政府として国際連合憲章調印の韓国代表として参加希望するも叶えられずアメリカ政府との交渉中であった。
1875年3月26日生まれ。生誕時は未だ韓国は鎖国時代。王家の一族であるが、400年前に分家した家系で特権はなく科挙合格を目指していたが、日清戦争で日本が勝利し科挙が廃止される。通訳養成学校に入学、開化派として活躍するが、政府が開化派弾圧すると首謀者といて逮捕、拷問を受ける。日本による支配が強まる中、高宗からの密命を受けアメリカのルーズベルト大統領に韓国の実情を説明を希望するも叶えられず、且つ、韓国への帰国もままならず、アメリカに滞在。ジョージワシントン大学、ハーバード大学、プリンストン大学で哲学の博士号を取得。日本統治下で宣教師として、一旦、韓国に帰るが、キリスト教系諸団体への警戒から再度アメリカへ戻る。この様な状態で終戦を迎える。
5️⃣朴正𤋮(パクチョンヒ)
1917年11月14日生まれ。裕福な家庭に生まれが、朴正𤋮が生まれた頃には没落していた。普通学校、大邱師範学校を経て、普通学校の教諭に就任。長髪、暴言等にて失職。満州陸軍学校を経て、日本陸軍士官学校留学生隊に編入。満州国陸軍中尉。満州国陸軍歩兵第8団の副官にて終戦を迎えた。

第1章 大韓民国建国  1945〜1949年

1️⃣大韓民国成立と李承晩大統領
1945年8月15日 解放
1945年9月8日 米軍仁川上陸
1945年9月9日 ソウル入城
1945年10月16日 李承晩(イスンマン)帰国
1945年10月17日 李承晩 帰国談話を発表
     21日 朝鮮人民共和国 呂運亨(ヨウンヒョン)と会談
     25日 独立促成中央委員会立上
1945年11月3日 朝鮮共産党が李承晩を批判 関係修復不可能
1945年11月23日 大韓民国臨時政府 金九(キムグ)との対立
1945年12月16日 国際連合朝鮮半島を信託統治決定。
         反対勢力である大韓民国臨時政府系、朝鮮共産党系が消滅
1948年5月10日 制憲議会の為の選挙。李承晩が唯一の候補となる
1948年8月15日 大韓民国独立 李承晩大統領、李始栄副大統領
2️⃣尹潽善 
1945年9月1日 韓国国民党立上。
直ぐに求心力失い、金性洙(キムソンス)の韓国国民党に吸収される
1945年10月4日 米軍から農政局顧問に任命
1948年12月 李承晩によりソウル市長任命 内務部長官:ソウル市長任命権あり
         叔父の尹致暎(ユンチヨン)
3️⃣朴正煕
1946年5月6日 個人資格で天津出発
   2日後、釜山到着〜ソウル 実家である善山に帰郷28歳
1946年9月 大韓民国陸軍士官学校入学
1946年10月10日    大邱にて大規模ストライキ 三兄朴相煕 警察により銃殺
1946年12月14日 大韓民国陸軍士官学校卒業  少尉に昇進〜小隊長(春川にて)
1947年9月 大尉昇進〜中隊長
3️⃣金泳三 1947年10月 ソウル大学入学
4️⃣金大中
1948年 「木浦商船」設立 左翼「人民委員会」から、右翼に接近する

第2章 朝鮮戦争勃発 1950〜1953年

1️⃣朝鮮戦争
1950年6月25日 午前4時  北朝鮮全面進行 韓国:午後2時 臨時会議
1950年6月26日午前9時30分 開場、議政府陥落
1950年6月27日 午前1時        韓国:韓軍崩壊と判断 午前3時米軍へ支援要請  
 国務総理:申性模 非常国家会議にて首都を水源に移転。ソウルを守る事の宣言。
 午前7時 李承晩ソウル脱出
 午後12時30分 陸軍本部撤収開始
 午後1時30分 北朝鮮ソウル突入
1950年9月15日 米軍仁川上陸
1950年9月26日 ソウル奪還
1951年7月27日 休戦協定調印
2️⃣金大中
1950年6月25日 仕事でソウル滞在。28日段階ではソウルは北朝鮮支配下に入る。320kmを歩いて木浦に向かう。20日かけて木浦に到着。北朝鮮に迫害られた母の姿。9月18日金大中が北朝鮮支配下の警察に連合られる。9月15日米軍仁川上陸により北朝鮮軍の撤退があり処刑されず。
3️⃣金泳三
1947年8月弁論大会で2等。
1950年4月 張沢相の選挙応援参加
北朝鮮は資本家である張沢相の弾圧を狙った。金泳三自身も資産家の家柄で処刑対処である。北朝鮮軍が進行した際、友人の実家のある利川の小さな村落で身を隠した。ソウルから50kmを3日歩いて到着。ここで3ヶ月過ごす。その後、ソウルに向かう。米軍のソウル奪還とほぼ同じ時期にソウルに帰着。
4️⃣朴正煕
1946年9月 士官学校二期入学
一期入学が幹部になり朴正煕は後輩の下で働く事になった。不満が多く労働党に参画。
1948年10月19日 陸軍の反乱発生。軍内部の粛清があり、1948年11月11日軍当局に逮捕。最終的には釈放。この段階で北朝鮮の進行があり朴正煕の姿勢が試されていた。1950年6月26日ソウル入り。27日情報局に帰着。水源に南下。漢江の橋は既に爆破されていて渡し船での決死行となり軍上司から信じて貰う事に成功。1950年7月14日現役復帰。少佐。9月15日中佐。その後、大佐に昇進。
5️⃣尹潽善(ユンボソン)
ソウル市長。1949年6月商工部長官。李承晩の閣僚であるが、徐々に李承晩との距離がだき1950年5月商工部長辞任。。朝鮮戦争勃発時、ソウルにいたが、橋爆発前にソウルを脱出。2つの事件(
京電社長更迭、生ゴム)で李承晩との距離できた。
6️⃣李承晩
ソウル脱出は1950年6月27日午前3時。5時間後、大邱到着。再度、ソウル死守の為、大田まで北上。米軍参戦の情報を聞き目的地を釜山に変更。米軍を迎える為である。午後10月頃、国民を鼓舞する為、ラジオ放送を実施。3日後の7月3日午前3時頃、南方へ移動開始。木浦に出て釜山へいく道を選択。午後4時木浦を出発。釜山到着は1950年7月2日午前11時。19時間の航路であった。釜山に臨時政府樹立。朝鮮戦争後、李承晩の政治スタイルは大きく変化。朝鮮戦争では軍の指揮権を米軍に渡した。1952年1月18日 平和線宣言。日本の漁業に大きな影響。1950年5月30日の国会議員選挙で与党大敗。1952年5月釜山政治波動勃発。25日、23都市に戒厳令。26日野党50人を連行。1952年7月4日憲法改正。

第3章 四月革命への道 1954〜1960

1️⃣李承晩
1960年2月28日 大邱 民主党演説会参加阻止の為の日曜学校参加への抗議から大規模なデモ発生
1960年3月15日 正副大統領選挙 大統領:李承晩 副大統領:李起鵬  
1960年4月19日 デモはソウルに至る
1960年4月25日 デモ学生が李承晩に面談。この時、李承晩は85歳。担ぎ上げられるだけの存在。     
        与党自民党が不正な選挙を推進。国民が不満から爆発。
1960年4月27日 大統領:李承晩辞任 1965年7月19日 ハワイで死去
        副大統領:李起鵬: 一家心中
1960年6月15日 議員内閣制導入
1960年7月29日 第2共和国発足
2️⃣金大中
1948年5月 木浦商船設立
1950年10月 木浦日報買収
1951年5月 大洋造船設立
1954年 選挙落選
1955年 民主党入党 新派:副大統領 張勉 旧派:趙炳玉
    旧派に所属。江原道の麟蹄から出馬不可
1959年補欠選挙落選 妻 車容愛死亡
1960年7月29日 国会議員選挙落選
3️⃣金泳三
1954年26歳で最年少の国会議員となる。与党からの出馬。
1955年 自民党から民主党の趙炳玉へ切り替える。
1958年 国会議員選挙落選
1960年7月29日 国会議員選挙当選 母をスパイ容疑で失う
4️⃣尹潽善(ユンボソン)
1954年 国会議員選挙にて初当選 民主党旧派。
1960年国会議員当選。
旧派の最高指導者の1人となり趙炳玉の資産を受け取る事になった。第2共和国では実質的な内閣制を採用しており、国務総理には張勉が就任し大統領に尹潽善が就任した。

第4章 5・16軍事クーデター      1961〜63

1️⃣朴正煕
1961年5月16日 軍事クーデター KBS占拠 3600人で挙行。1952年と50年代後半、1960年から1961年5月16日までに4回のクーデター1961年5月末、予備役編入予定のギリギリでのクーデター。クーデターの理由は、自分等の軍内部での処遇。一期上が昇格するが、自分達は昇進しない事が不満の真因。
2️⃣尹潽善(ユンボソン)
第2共和国の大統領であった。軍参謀総長の張都暎はクーデターはないと考えていた。理由は国連軍が5万人駐屯している事、指揮権も国連軍である事である。国務長官の張勉も同様てあつたが、クーデター勃発後、張勉は55時間隠れ張都暎はクーデター側に寝返った。この様な状況の中で大統領の尹潽善は辞任の自由もなく、辞任には「政治活動浄化法」への署名が必要とされ、これにサイン。この法律は、クーデター側が指名した4373人の政治活動を制限し、事実上政治生命を断つものであった。
3️⃣金泳三
クーデターで議員バッジを失った。政治活動浄化法の対象で政治活動ができなかった。
1963年2月1日 政治活動浄化法解除
1963年3月16日 軍政延長と政治活動浄化法再度実施
1963年3月22日  反対デモ 逮捕され収監
1963年4月8日 3月16日宣言撤回 しかし、次の大統領選挙で朴正煕勝利
4️⃣金大中
1961年5月13日 補欠選挙で当選
1961年5月16日 クーデターで失職

1962年5月10日 李姫鎬と結婚 軍事政権により投獄
1963年2月27日 解禁
1963年国会議員当選 木浦から

第5章 日韓国交正常化  1964〜70年

1️⃣李明博
1941年12月19日 大阪生まれ。養豚場で働く4男2女の貧しい3男として生まれた。
1945年11月 朝鮮半島復帰。夜間の同志商業高等学校入学
1960年 梨泰院の貧民街に移動
※優秀な次兄李相得(イサンドウク)のソウル大学入学の為
1964年高麗大学商学部学生会長就任
1964年6月3日 日韓条約反対運動参加〜逮捕〜6ヶ月収監
この運動で李明博の名前は韓国国内で有名になり、現代建設の社長、会長に登り詰める。
2️⃣朴正煕
1951年国交回復の予備向上開始
1952年2月15日 本格交渉開始 4回の交渉は全て失敗
1960年 クーデターにより第5次交渉も中断
1961年10月+11月大平外務大臣と金鍾泌会談
これまでの交渉よりも破格に安い価格での交渉内容
1963年 大統領就任
1964年1月10日 年頭教書演説外資の確保、通商振興による国家経済再建に尽力を強調
1964年6月3日 学生運動に対してソウル市内に戒厳令
3️⃣金大中
金大中の請求権での主張は、一銭も貰わないという内容で野党側からも与党の手先と言われ「サクラ」と呼ばれた。
4️⃣金泳三
請求権の問題よりも先に漁業権を主張。その後、請求権、朴正煕政権への批判へと主張を写して行った。
1965年10月12日 民衆党院内総務就任
1965年10月14日 国会復帰
5️⃣尹潽善(ユンボソン)
軍事政権から大統領の位置を奪われる。
1963年選挙にて朴正煕に敗北
政治活動浄化法への署名により野党の代表とする事に反対する勢力あり。しかし、尹潽善は最後まで自らの立候補に拘り野党勢力を結集できず朴正煕に選挙で敗北。
1965年7月 民衆党離脱〜議員辞職
1965年2月20日 日韓条約仮協定 平和線否定
1965年6月22日 正式調印

第6章 維新クーデター 1971〜1972

1️⃣尹潽善(ユンボソン)
1963年、1965年、1971年 3度に渡り対与党強硬論で野党を分裂させた1963年大統領選挙にて
朴正煕に15万秒まで肉薄
1967年大統領選挙では100満票以上の差で大敗
1990年死去
2️⃣朴正煕
1970年3月26日 アメリカ 在韓米軍削減発表
1971年 野党・新民党躍進 204議席中、89議席を獲得
1971年3月27日 米第七歩兵師団韓国撤退
1971年7月 ニクソン大統領 北京訪問
1971年12月6日国家非常事態宣言
1972年7月4日 南北共同声明
1972年10月17日 維新クーデター 国会解散
3️⃣金泳三
1954年  26歳 国会議員
1960年 新民党副総裁
1963年 民政党 スポークスマン
1965年 民主党 院内総務
1969年11月8日大統領予備選への立候補 長老への挑戦 世論は40代若手政治家3人を支持 
1970年9月29日新民党大統領予備選  金泳三、金大中、李哲承
最終的には金大中が候補者に選出
4️⃣金大中
1968年5月20日  民衆党院内総務 金泳三に破れる
1970年9月29日 新民党大統領予備選にて選出される
1971年5月25日 交通事故(暗殺未遂)
1972年7月13日  朴政権批判
1972年10月18日 亡命政治家としての活動開始

第7章 朴正煕暗殺  1973〜1979

1️⃣金大中
1973年8月8日 金大中拉致
1973年8月13日 自宅で解放
1973年8月16日 自宅軟禁開始
1973年10月26日 自宅軟禁解放
1973年11月1日 田中首相 朴正煕親書受取 主権侵害に対する謝罪
1974年3月 実父死亡 葬式参加できず
この段階で金大中は金泳三と並んで野党内で対与党強行派の2大勢力となる。
2️⃣金泳三
1974年8月22日 新民党党大会にて党首に選出
1976年9月 新民党党大会で党首選で破れる
1978年年末 国会議員選挙にて、与党68人.野党61人となる。
1979年5月30日 新民党党大会にて党首返り咲き
3️⃣朴正煕
1971年 10月2日 国家内クーデター未遂。与党内での権力争い。
        金鍾泌と反金鍾泌の戦い。反金鍾泌である金成坤、吉在号を逮捕。
1973年 尹必鏞を反逆罪、李厚洛解任。
1974年8月15日 陸英修夫人死亡。朴鍾圭 に代わり車智澈を寵愛
1975年  金鍾泌解任
1978年2月22日 車智澈が毎朝朴正煕に報告。白斗鎮波動
1979年5月30日 金泳三新民党党首就任責任により金載圭に責任。
1979年10月4日 金泳三国家除名
1979年10月16日 釜山でデモ
18日には馬山でもデモ
1979年10月20日馬山、釜山一帯に衛戍令
1979年10月26日 朴正煕、車智澈、金載圭、金桂元の4人で食事会。
        朴正煕による金載圭への詰問。金載圭による朴正煕射殺。
4️⃣李明博
1979年10月20日 朴正煕大統領への集団接見。直接の進言なし。

第8章 「新軍部」による支配  1980〜86

1️⃣ 新軍部  全斗煥(ゼントカン)
1979年10月26日 朴正煕射殺
1979年11月6日 全貌発生
1979年12月6日 崔圭夏大統領就任
1979年12月12日 軍乱による鄭昇和逮捕
19879年12月21日 崔圭夏大統領による公正な選挙の約束発生
1980年2月29日 金大中、金泳三、金鍾泌の公民権回復
1980年5月17日 戒厳令 金大中、金泳三、金鍾泌らを一斉に逮捕
1980年5月18日〜10日間 光州での徹底的な鎮圧活動死者240人、行方不明409人、負傷者5019人
2️⃣盧武鉉(ノムヒョン)
1946年9月1日 慶尚南道金海市生まれ貧しい家庭で2人の兄あり
1963年 釜山商業高校入学 卒業後、地元の網元会社に入社
1968年   軍役
1971年 除隊
1973年 1月  結婚 権良淑(クォオン ヤンスク)
1973年 5月 長兄死亡
1975年 司法試験合格
1978年 弁護士開業
1979年 朴政権 釜馬抗争で決意
1981年 釜林事件関与
1986年頃 弁護士活動停止   政治活動中心へ
3️⃣李明博
1980年5月 光州事件当時、新軍部に突然連行される。
金大中、金泳三、金鍾泌への献金の疑惑。財閥にとって新軍部時代は苦難の時であった。
4️⃣金大中
1970年7月4日 戒厳令司令部発生 金大中一党の内覧陰謀事件調査結果、光州事件等で7つの罪
1980年9月17日 金大中への判決 死刑
1980年11月3日    軍法会議へ抗争〜棄却
1980年11月8日  最高裁へ上告〜海外から金大中釈放への呼びかけ多数
1981年1月18日 新軍部から金大中への減刑嘆願書作成への説得
1981年1月23日 金大中を死刑から無期懲役に減刑
1981年3月3日   全斗煥による恩赦、無期懲役から懲役20年に減刑
1982年年末 治療の為にアメリカ出国打診
1982年12月23日 ソウル発アメリカでの2度目の亡命生活
5️⃣金泳三
1980年1月25日 朴正煕死亡により新民党が政権をとる事は必然である、との年頭コメント
1980年2月29日 金大中への新民党顧問への就任要請〜金大中拒否
1980年4月5日 野党分裂
1980年4月17日 改憲は政府主導の宣言
1980年5月17日 新軍部クーデター
1980年5月20日 金泳三軟禁 新民党総裁辞職、政界引退 ※81年4月30日まで軟禁継続
1980年10月22日 新民党強制解散
1981年6月9日 民主山岳会
1982年5月31日 第2次軟禁
1983年5月16日 国民へ送る言葉   全斗煥への抗議を込め断食 23日間断食を継続
1984年5月14日 金大中、金泳三の連合組織として民主推進協議会の結成
1985年1月18日 新韓民主党発足
1982年2月12日 第12会国会議員選挙
        新韓民主党は276議席中、148議員を獲得

第9章 「第6共和国」の興亡    1987〜2002

1️⃣金泳三
1987年4月13日 金大中と金泳三が統一民主党結党
1987年6月29日 「6.29宣言」 
   直接大統領選挙、金大中赦免、政治復帰、人権尊重、国民の基本権保障
1987年9月29日 金大中、金泳三決裂
1987年10月27日 第6共和国スタート
1987年12月16日 第13代大統領選挙盧泰愚勝利
         盧泰愚828万票、金泳三633万票、金大中611万票
1988年4月26日 国会議員選挙 第3番目の議員数
1990年1月22日 3党合意 盧泰愚、金泳三、金鍾泳の3人が民主自由党を結党
1992年5月19日 金泳三が民主自由党の大統領候補となる
1992年12月 大統領就任
2️⃣金大中
1992年3月24日 国会議員選挙 金大中率いる民主党躍進97議席
1992年12月 大統領選挙 惨敗3度目の大統領選挙敗北 政界引退の表明
1994年7月18日   正式に政界復帰
1996年4月11日 国会議員選挙惨敗 金大中落選
1997年1月 韓国経済危機   与党への失望
1997年11月3日 野党一本化 金鍾泳(新軍部幹部)との間で合意
1997年12月18日 大統領就任 4度目の選挙でやっと当選
3️⃣李明博
1988年3月 兄が国会議員当選
1992年3月 国会議員選挙当選 現代グループ会長鄭周永との戦いを回避
1995年 ソウル市長選挙候補落選。党内でのポジション上がる
1996年4月 国会議員選挙当選
1996年9月10日  不正選挙容疑〜起訴1998年国会議員辞職  
ソウル市長選挙立候補〜撤退
1998年4月28日  再度、選挙違反で逮捕
4️⃣盧武鉉
1988年4月 国会議員当選  金泳三の支援で釜山にて出馬
1988年11月7日〜3日間   聴聞会にて活躍
1990年6月15日 独自の新党結成  金泳三との決別
1991年9月16日 金大中への合流
1992年3月24日 国会議員選挙 釜山から出馬〜落選
1995年6月27日   釜山市長選挙〜落選
1996年12月21日 新党結成
1996年4月 国会議員選挙 惨敗
1997年12月 新党解散
1997年7月21日  李明博の補欠選挙で勝利
2000年4月13日 国会議員選挙  
      釜山から出馬〜落選するも「盧武鉉を愛する会」結成

終章「レイムダック現象」の韓国政治 2002〜

1️⃣盧武鉉
2002年 ワールドカップ  韓国代表ベスト4
2002年11月18日〜23日  米軍車両により、女子学生2名死亡する。
2003年2月25日 大統領就任
2003年9月20日 盧武鉉支持グループが与党離脱
2003年9月23日 盧武鉉も離脱
2003年11月11日 新党設立
2004年3月12日 大統領弾劾 国務総理が代行
2004年5月14日 弾劾無効 盧武鉉の大統領復帰
2007年2月13日 戦争時に韓国が作戦統制権把握
2007年4月2日 アメリカとの自由貿易協定交渉妥結
2️⃣李明博
1999年12月 アメリカから帰国
2000年6月13日 李明博選挙権回復
2002年2月22日 ソウル市長当選「精渓川復元構想」
2003年7月1日   精渓川復元構想着工
2005年6月1日    精渓川 試験導水
2007年 大統領当選

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